らい ど おん たい む。 温帯(おんたい)とは

34 雷天大壮(らいてんたいそう)

らい ど おん たい む

今日は雷天大壮(らいてんたいそう)です。 「大壮は、貞しきに利し」 大壮は勢いがあって大変盛んであるので、 正しく時には止まることで利があります。 雷天大壮(らいてんたいそう)は、天の上に雷。 大空に激しく響き渡る雷の音といなずまのイメージです。 12消息卦(しょうそくか)の新暦の3月の卦で、 イラストを見ての通り陽爻 が陰爻 を上へと押し上げてきていて 陽爻 の方が勢いが強くなっています。 こうなると動き出したら止まらない、 制することがむずかしい性質となります。 目的を間違えるとただの乱暴者に陥る可能性もあります。 老子が「自らに勝つものは強い」と言っている様に、 勢いに乗って礼儀はずれ、傲慢になりやすいので 私利私欲に負けないこと、 調和と平和を忘れないことが大事です。 爻辞 34 雷天大壮(らいてんたいそう)の初爻 準備ができていないのにやる気満々で動こうとしています。 見切り発車はNG。 派手にやりたくなるでしょうが、淡々といつもの通りのことをやりましょう。 平凡が一番です。 「趾(あし)に壮んなり。 征けば凶。 孚あり」 進み方が激しすぎるので、誠意があっても傷つきうまくいきません。 勇み足に気をつけましょう。 まだ準備ができていないのにやる気満々で動こうとしています。 見切り発車はNGです。 約束を思い出してください。 まだ、動いてはいけません。 之卦 32 雷風恒(らいふうこう) いつも通りの「雷風恒」です。 勢いよくやりたくなっても、平凡で退屈に感じても、 淡々とやるべきことをこなしましょう。 爻辞 34 雷天大壮(らいてんたいそう)の2爻 元気いっぱいで派手にパーッと行動したくなりますが、ぐっと抑えて日常モードで行動しましょう。 合言葉は「腹八分目」!景気よくやりたくなってもがまんがまんで、穏やかな運気を楽しみましょう。 「貞しければ吉」 正しくいられれば吉です。 運気安定。 暴走したくなりますが、腹八分目にしておきましょう。 普段のペースを守ってこの安定運気を守ることが 大事になります。 之卦 55 雷火豊(らいかほう) 派手にやりたい「雷火豊」です。 景気よくやりたくなったり、見栄を張りたくなったりするかもしれません。 「腹八分目」と唱えて、がまんがまんです。 爻辞 34 雷天大壮(らいてんたいそう)の3爻 元気のよい羊が垣根にひっかかって進めなくなってもがいています。 調子はよいのですが、思い込みで突進すると思わぬトラブルに。 まわりの状況や人の意見も取り入れて行動しましょう。 「小人壮を用い、君子は罔(もう)を用う。 貞なるも厲うし。 羝羊(ていよう)藩(まかき)に触(ふ)れて其の角を羸(くるし)ましむ」 小人は調子に乗って勢いで進むが、君子は強い力で無理に進もうとはしません。 羊が生垣に突っ込んでつのがひっかかってもがいています。 好調なのはいいのですが、調子に乗って前に進むと 障害にぶつかってしまいます。 スピードの出し過ぎに注意。 また、時期ではないので新しいことを始めるのはちょっと待って。 人の後ろから行くくらいでもちょっとやり過ぎなくらいです。 之卦 54 雷沢帰妹(らいたくきまい) 順序が逆の「雷沢帰妹」です。 やることが裏目に出やすいです。 先々のことをよく考えて行動しましょう。 爻辞 34 雷天大壮(らいてんたいそう)の4爻 羊の角がひっかかって進めなかった垣根に隙間ができました。 足止めされていたことが進み出す吉運です。 すべてのことがうまくいきますので安心して前進してください。 「貞しければ吉にして悔亡ぶ。 藩ひらけて羸(くるし)まず。 大輿(よ)の輹(ふく)壮なり」 正しくしていれば吉で、後で後悔することはありません。 今まで行く手をさえぎっていた垣根に隙間が開いて 前進しようとしていた羊の角がひっかからなくなりました。 今までなかなか前に進めなかったことが前進し始めます。 行うものごとは全て順調ですので、安心して進めて下さい。 盛運です。 之卦 11 地天泰(ちてんたい) 天下泰平の「地天泰」です。 何をやってもうまくいくでしょう。 爻辞 34 雷天大壮(らいてんたいそう)の5爻 飼っていた羊が一匹いなくなってしまったが気にしない!損な役回りでもおおらかに引き受けていると最後には自分の利益につながります。 細かな損得勘定に振り回されないようにしましょう。 「羊を易(さかい)に喪(うしな)う 悔なし」 羊が田んぼの畔でいなくなってしまったが、 心配することはありません。 多少の犠牲は受け入れ、多少損な役回りでも引き受けると、 結果は自分のためになります。 余計な細かいことは心配しないでください。 之卦 43 沢天夬(たくてんかい) 思いきって飛び込む「沢天夬」です。 思いきって引き受けてみましょう。 爻辞 34 雷天大壮(らいてんたいそう)の上爻 やり過ぎを反省する時です。 暗礁に乗り上げて進むも戻るもできなくなっていることがあったら、素直に反省して整理することから始めましょう。 そうすることによって災い転じて福となる可能性大です。 「羝羊藩に触れて退くこと能わず。 遂(と)ぐること能わず。 利ろしきところなし。 艱(なや)めば吉」 羊が垣根に突っ込んで進むも戻るもできなくなっています。 猛進しすぎました。 凶です。 力不足なのに突進してしまった自分を反省し、 この困難な状況を受け入れ辛抱するなら 解決は早く、運も開けていくでしょう。 やけを起こさないで不調を乗り切っていきましょう。 之卦 14 火天大有(かてんたいゆう) 太陽さんさんの「火天大有」です。 不調の向こうには好調があります。 関連の映画も見、4年前の3月11日とその後何をしていたか思い出し、 一緒に行った上の子どもと喫茶コーナーで しみじみ語り合えたのがよかったな。 震災については、記憶があやふやなところや異常に鮮明なところが まだらにあって、まだ整理がついていないような気がします。 今日話した中で思い出したのは、 実は、あの日、 午後から自宅で4、5人でこじんまり易占い教室を開いていて、 上の子どもとその友人も生徒として参加していたのでした。 地震があった時はちょうどそれぞれが自分の課題に易を立てていたところ。 その話の途中、易占い教室が終わる前に地震に遭いました。 そのまま、混乱の中に。 あの時の占いって当たったんでしたね。 衝撃の易占いでした。 今日はこの辺で。 ありがとうございます。

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公務員だけど皆様に一言いいたい : りぷらい速報

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生涯 [ ] 生い立ち [ ] 周恩来はのの家に生まれた。 周恩来が13歳となった、が起きる。 翌、が崩壊し、が建国された。 、周恩来はの南開中学校に入学し、革命の息吹に触れる。 日本留学 [ ] 南開中学卒業後のに、に。 日本語の習得不足によりとの受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(付属学校)、政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。 日本では勉学に励む他、友人と活発に交流して祖国の将来について語り合っている。 またや、やなど、各所を積極的に見てまわっている。 にはの大祭を見物し、「それを見てはなはだ大きな感慨を催す」。 またにもを訪れたことも日記に記している。 日本社会や日本人についてもよく観察しており、これが知日派としてのベースをつくった。 同年、留学生の一斉帰国運動も起きるが、周恩来は冷静な対応をしている。 一旦中国に帰るが、再来日。 帰国前の数ヶ月については記録もなく、よくわかっていない。 苦渋の中で、酒に溺れがちだったという説もある。 やがて、母校の南開学校が大学部を創設するということを知って、帰国を決意した。 船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐山の周恩来記念碑に刻まれている。 の著書で初めてに触れ、でその講義を聴講もしている。 4月に帰国し、文学部に入学。 その直後に中国近代史の起点となるが起きる。 周恩来は学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。 なお日本滞在中の様子については、『周恩来 十九歳の東京日記』が最も正確で詳細な記録である。 の記者のインタビューを受けたという、従来の伝聞や伝記にあった誤りも指摘されている。 黄埔軍官学校時代の周恩来(左)と(中央) 、周恩来は帰国し、を成立させた孫文が創立したの政治部副主任となった。 ちなみに校長はであった。 翌、五・四学生運動時代の恋人と結婚した。 、周恩来はに移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。 その後、のを朱徳と共に指導した。 、のにが樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、に妻と共に参加した。 では自らをし、が主導権を掌握するのを助けた。 以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。 、での活躍で周恩来の名が世界に知られるようになった。 これは当時「 安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党を弾圧していた蒋介石を、東北軍のと西北軍のがで拘束、一致抗日を要求した事件である。 第一次国共合作の時代から打って変わって猛烈な者となっていた蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求め、蒋が国内平和を実現し、日本に対して強硬姿勢をとることに同意することを条件に蒋の釈放を提案した。 周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。 妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。 校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。 日中戦争・国共内戦 [ ] (支那事変)が始まると、周恩来は共産党の代表としてに駐在し、蒋介石との統一戦線の維持に努めた。 日本が中華民国を含む連合国に対して降伏した後はそのまま重慶に止まり、毛沢東と共に戦後の連合政府の樹立に向けた国共会談を続け、を結び、国民党のや米国のとともに ()(三人委員会)も設立した。 しかし、これは物別れに終わり、が始まった。 、、周恩来 内戦に勝利した共産党は、、を建国した。 なお、中国共産党政府は日本人戦犯(捕虜)の思想改造を行った上で、戦争犯罪について判決を出したいと考えていたが、それをいかにして行うか、計画があったわけではないようだ。 ただし、日本人戦犯の処遇に直接あたった周恩来の理想主義が色濃く出ている。 撫順管理所の孫明斎所長、金源副所長、曲初副所長らが『覚醒』のなかの論文で述べており、また部下によれば、周恩来は東北人民政府の公安部に対し、「外部に対して厳重に警護し、戦犯たちの安全を確保する。 一人の逃走者も、一人の死亡者も出さず、内部は緩やかにし、殴ったり、人格を侮辱したりしない。 彼らの民族的な風俗、習慣を尊重し、思想面から彼らの教育と改造を行う」とまず指示したという。 その後日本軍の捕虜に対して、「服役期間中に態度が良好だった戦犯に関しては、早期釈放をしても良い。 年配者や体が弱い者或いは病人も釈放を考慮し、家族の訪中や見舞いなどを許可する」「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはいけない。 しかし、それでも私たちは彼らを「改造」し良くしなくてはいけない。 彼らを生まれ変わらせ、我々の友にしよう。 日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、これこそ中国文化の知恵と力量に対する試練なのである」と述べている。 20年後に解る」と諭した。 「最初の日本人戦犯裁判で起訴155人死刑7人執行猶予付き死刑3人が確定したが 周恩来の指示で最終的に起訴51人死刑なし無期懲役なし懲役20年4人に減刑された。 あまりの寛大な処置に収容所スタッフから不満が出たが「今は分からないかも知れないが20年後、30年後に分かる。 」周恩来は言ったという(ちなみに連合軍側が裁いたBC級戦犯の裁判では死刑判決が920人、終身刑判決が383人だった)。 元戦犯たちが日本に帰国しを結成した。 そして、その代表団が後に再び訪中した際面会した周恩来はこう言ったという。 「今度、日中両国の間に国交が回復(実際は国交正常化)したことはまことに喜ばしいことです。 これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。 しかし、本当の友好はこれからでありましょう。 中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。 これにはまだ永い年月がかかることでしょう。 日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」。 また、日本人戦犯だけでなく、対日協力者だった戦犯にも寛容であり、皇帝のや主席のなどが周恩来から特赦と役職を与えられている。 総理就任と外交政策 [ ] の中華人民共和国の建国後、周恩来は(に相当。 建国当初はと称していた)に就任し、に死去するまで27年間この地位にあった。 また、まで()を兼任し、外交政策を主管した。 周恩来(左)、(中央) にので開かれた(バンドン会議)に出席して中印の平和五原則はとして・諸国共通の理念となり、を反の立場にあると世界にアピールしてと連帯する外交政策を行った( ())。 同会議の出席者での団結を掲げるの大統領とはで卒業生の ()の通訳で会話を交わして親交を結び 、エジプトはアフリカで初めて中国を国家承認する国となってアフリカ諸国歴訪でも真っ先に訪れた。 同会議直前には会議に招待されなかった中華民国()による周恩来暗殺作戦とされるが起きている。 インドネシアの大統領とは「北京=ジャカルタ枢軸」と呼ばれる関係を築き、スカルノはの非加盟国でつくる「第二国連」を構想して(CONEFO)を結成した際に中国はとともにCONEFO本部建設の最大支援国となっており 、インドネシアも中華民国とをで参加拒否してを開催するなどアラブ諸国や中華人民共和国と連携し、スカルノ失脚直前には中華人民共和国はインドネシアに協力を持ちかけるまでの蜜月ぶりだった。 また、同会議に出席したアフリカ独立運動の父とされるの大統領は周恩来に特注して贈られたを愛用し 、訪中と同時にガーナでが起きた際も周恩来からエンクルマは国賓待遇された。 周恩来はやらの黒人運動家を中国に招いてのにも支持を与えた。 かつてのでの蜜月も消えてとのが起きると、中華人民共和国はだけでなく、米国や日本などのとの国交正常化を求めるようになった。 周恩来は総理として両国との交渉を管掌した。 日本とはとの合意でを行い、との元である やと緊密な関係を築き 、には中国建国10周年慶祝訪中団団長の片山と会見して石橋と日中国交樹立を呼びかける共同声明を発表している。 には周恩来の外交手腕もあって中国共産党の政策を支持しきたインドやエジプトなどアジア・アフリカの諸国、ソ連となどの、米ソと並ぶでもあるやなどの一部のや当時の からの支持も得てがで可決され、中華人民共和国は国連に加盟して中華民国を国連と関連の国際機関から追放させることに成功し、アルバニア決議に反対していた日米も中華人民共和国との国交樹立に動くことになる。 訪中したと会談する周恩来 2月、パキスタンやの仲介 でのさせ、アメリカとの国交正常化交渉を前進させた(アメリカ合衆国と中華人民共和国とのが実現したのはニクソンの政権と交代したの大統領との間ののことである)。 同年1月に日本も当時の総理が中華人民共和国との国交正常化を目指すことを演説で述べ 、周恩来への親書を託した密使をに派遣して北京訪問の希望も伝えてきた。 なお、アルバニア決議が採択された際にのは訪中するに書簡を託すも周恩来は佐藤政権への不信感から斥けていた。 同年9月、現職総理では初めて訪中したと数度にわたる交渉に臨み、に調印して日本との国交正常化を実現した。 調印式で交わした田中総理との固い握手とその写真は時代の象徴として語り草になった。 には当時の政権だけでなく、国交正常化前に派遣されていた、、 といった野党とら経済界の訪中団なども貢献した。 「日本人民は軍国主義者の犠牲になった被害者だ」、「日中両国には、様々な違いはあるが、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である」「わが国は賠償を求めない。 日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。 賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになる」と公言したことで日本のマスコミから賞賛されたが、近年明らかにされた外交文書ではに対し「日本の台頭は米中両国の脅威である」などと話していたことが明らかになっている。 周の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。 また、その人柄からニクソンやキッシンジャー、田中角栄など、諸外国の指導者層からも信頼が厚かった。 文化大革命 [ ] を持つ周恩来 (プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、()のレッテルを張られたらのに協力した。 文革勃発時に有力幹部の殆どが失脚、または死亡する者さえいた中、周恩来は最後まで地位を保った。 周恩来は毛沢東の路線に従い、毎日を接見して指示を与えた。 劉少奇を「敵の」と決め付ける党の決定を読み上げたのも周恩来だった。 その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。 紅衛兵がの道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。 またを紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣して阻止した。 など数々のを紅衛兵から保護した。 更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。 例えば、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。 それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ! 」と叫び、身を挺して守った。 しかし、周恩来のこれらの行動には限界があり、全体として文革の嵐を止めることは出来なかった。 ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。 その象徴的事例として、彼のでありであったの悲劇がある。 孫維世は毛沢東の妻であるの激しい憎悪の対象であった。 江青のこの感情は、江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからとも、「延安四大美女」のひとり、或いは「紅色公主」(赤いプリンセス)と呼ばれていた彼女に毛沢東が関係を迫った事を知っての嫉妬だったとも言われる。 江青の差し金によって逮捕された孫維世は北京獄中で拷問を受けて死亡した。 遺体の頭頂部には大型の釘が打ち込まれているなど拷問の痕跡が発見され、これを見た周恩来は検視を要求したが、「遺体はすぐに火葬する」と告げられたという。 しかし、周恩来は養女である彼女のために何もしなかった。 それどころか、孫維世へ対する「ソ連修正主義者のスパイ」という逮捕状にサインしていたのは周恩来本人だったとの証言 も残されている。 転機となったのがの失脚()であった。 林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバー2であったが、じきに毛沢東の信頼を失い、毛のを計画したが失敗(林彪は毛沢東が文革で中国を破壊する事に批判を強めていたとも言われる)。 に逃亡する途中に搭乗機がで墜落し死亡した。 これが契機となってが復権、一部幹部の名誉が回復された。 周恩来は鄧小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。 更にその後、周恩来は江青らとの激しい権力闘争を強いられたが、最後まで毛沢東に信任され、実権を握り続けた。 には・・・の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱し、後の鄧小平による「改革・開放」の基盤を築いた。 周恩来は文革の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。 十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。 これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。 死去 [ ] にが発見される。 その後も休むことなく職務を続けたが、病状は悪化の一途をたどった。 、北京の解放軍第305病院に入院。 病室でなおも執務を続けた。 1975年1月の第4期全国人民代表大会第1回会議では、病身を押して、国務院総理として政治活動報告を行う。 同会議において総理に再選。 しかし、同年秋から病床を離れられなくなり、ついに、周恩来は死去した。 彼の死後、文革によって苦しめられていた民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを当局が鎮圧するというが起こった。 また、その遺骸は本人の希望によりされ、遺骨はで中国の大地に散布された。 これらは生前に妻のと互いに約束していたことであった。 四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。 周の葬儀にはも参列した。 評価 [ ] 外国人による評価 [ ] 写真中央が周恩来、右は毛沢東、左は当時だった 1972年のニクソン大統領訪中のお膳立てをしたキッシンジャーは、周恩来を「今までに会った中で最も深い感銘を受けた人物」の一人に数え、「上品で、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。 国連事務総長だったは「外交畑で今まで私が出会った人物の中で、最も優れた頭脳の持ち主」と証言している。 国王はとして北京に亡命していた時期にをカンボジアの指導者に推すと対立もしていた周恩来と親しくし、シハヌークは周恩来を「私よりよっぽど王族らしい」と評している。 『周恩来伝』を書いたのディック・ウィルソンは、周恩来をやと比較し、「密度の濃さが違っていた。 彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最大級の賞賛をしている。 また、以来とも親交を持ち(ジュネーヴ会議出席の際、から在住であったチャップリンを訪ねている)、彼の作品の一つ「」の名シーンであるチャーリーが靴を食べる場面を見て、長征の際の苦難を思い出し、懐かしがったと言う。 でも周恩来に傾倒した著名人は多く、日本人70名が寄稿した文集『日本人の中の周恩来』がある。 しかし、周恩来とインド訪問など で活動をともにしたは毛沢東をその振る舞いから「革命の真の偉大な指導者」と評した一方で、周恩来は「大変ずる賢いと思った」 とその強かさを評している。 「彼(周恩来)は同志と人民から尊敬された人物である。 文化大革命の時、我々は(地方、農村での思想矯正)したが、幸いにも彼は地位を保った。 文化大革命のなかで彼のいた立場は非常に困難なものであり、心に違うことをいくつも語り、心に違うことをいくつもやった。 しかし人民は彼を許している。 彼はそうしなければ、そう言わなければ、彼自身地位を保てず、中和作用をはたし、損失を減らすことが出来なかったからだ」 逸話 [ ]• 最後の皇帝であり、その後の皇帝となったため、中華人民共和国の建国後には一時戦犯となったを、の代表として全国委員に推薦した。 下層階級の出身者が多く、教育、教養程度が低く、伝統、古典文化に拙い者が多い当時の共産党幹部の中では、珍しく日本やフランス留学の経験もあり、の名家の出であった周恩来は廃位後の溥儀の不遇を哀れんでいたとも言われている。 溥儀の弟のに対しても親切であった。 に日本にいる溥傑の長女のからの手紙を読んで感動し、獄中の溥傑と日本にいる妻子(と2人の娘)との文通を認めた。 また、に溥傑が釈放された際も、当時まだ日本と中華人民共和国の国交がなかったにもかかわらず、浩の訪中を歓迎した。 中華人民共和国建国以来、毛沢東との人間関係においては、軍政両面で実権を手に入れてのような立場になろうとした野心家のに対して、周はのような古来の中華帝国の形式に則る「皇帝に従属する」という実直なスタンスを生涯貫き通した。 1950年代からの第三世界との連携、1970年代に実現した国連加盟や日米との国交正常化の最大の功績者は周であるが、これらの首脳対話の場面においても周はあくまで毛沢東を中国サイドの主役として立て続けた。 だが、毛は周を最後まで信用せず、林彪事件後はを企んでいると思い込んでいた。 周死去の報を聞いた毛沢東は、祝いの花火を打ち上げ上機嫌であった。 に事故に遭って以来、右腕が不自由になり、以後物を書くときは不自然な体勢になった。 建国後北京の有名な料理店で店員間で起こった揉め事の仲介人をかって出ている。 双方の言い分を聞いてから「どっちも悪いことがわかった」と言った。 なぜかと尋ねる店員たちに対して「お前さんたち、お客さんに料理を出してあげていないじゃないか」と答えたという。 、訪問時に、周恩来を乗せた車が踏切を渡ろうとした時に停止信号を無視して突っ込んできた急行列車とあわや衝突しそうになった事がある。 この時に周恩来の乗った車の一台前の車は列車と接触事故をおこした。 そして周恩来を乗せた車は急ブレーキをかけて踏み切りの数メートル手前で停止し、その目の前を猛スピードで急行列車が通過して事なきを得た。 セイロンはすぐに周恩来へ深く謝罪すると共に鉄道省の責任者を更迭した。 中国東北地区方正(ほうまさ)地区には、ソ連軍の満州進駐、日本の敗戦によって、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきて、ここで数千人もの人が虐殺された。 当時総理だった総理周恩来の指示によって、これらの犠牲者を弔うために中国方正県政府に指示し「 方正地区日本人公墓方正地区日本人公墓」を作らせた。 そして、文化大革命の時にこの「日本人公墓」も破壊されそうになったが、周恩来の「彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはならぬ」との指示と、地元住民の努力で破壊されずに済んだ。 1972年の国交正常化で田中使節団を迎える時、周恩来は新潟出身の田中首相、香川出身の大平外相、鹿児島出身の二階堂官房長官のために、軍楽隊に新潟の佐渡おけさ、香川の金比羅船々、鹿児島のおはら節を演奏させた。 田中角栄総理が北京を訪問する前、周恩来総理が田中総理についていろいろと調べるように部下に指示した時「田中角栄首相にはいろいろ女性問題がある」と週刊誌を集めて報告した部下がいた。 周は「中国と日本が歴史的な和解をしようとしているんだ。 そういう話は何の関係もない」と叱りつけたという。 日中国交正常化のため尽力していた日中覚書貿易事務所代表で当時日中唯一の窓口となっていたと初めて会った時に周はこう言ったという。 「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し、人民を傷つけ苦しめてきました。 我々にはその深い恨みがあるのです、恨みがあるといえども、中国と日本には2000年にわたる『友好の歴史』があります。 戦争による不幸な歴史は、わずか数十年に過ぎないのです。 我々は恨みを忘れようと努力しています。 これからは中日が力を合わせて、アジアを良くしていこうではありませんか」岡崎は周恩来の印象をこう語っている。 「周総理と会っていると、偉い人と会って話しているような感じがしないんです。 まったく、何十年来の友人と話しているような、そんな感じを醸す人でしたね」ある時、周恩来は岡崎に「歳」を尋ねた。 すると、岡崎は自分よりも一つ年上だった。 周「じゃあ、あなたが兄だ」。 二人は兄、弟と呼び合うほどに、信頼し合うようになっていったという。 民間レベルでの日中貿易協定を結ばせたの行動は日本国民や右翼団体の反発を招いた。 息子の彬は父親について中国へ行き初めて周恩来と会った。 その時、周恩来は静かに話しかけてきたという。 「君のお父さんはね、たぶん自分のことを言わない。 でも、私たち中国人は友のために生死をかけるような人を、本当に信頼するんだよ」「中国にいる私は、すごく安全だ。 誰も私を殺そうとなどしない。 でも、君のお父さんが日本に帰ると、ちょっと危ないんじゃないかな。 それでも君のお父さんは、中日のために命を賭けてきたんだ。 だから、私たちは信用しているんだよ」• 日中国交正常化の際には田中角栄総理が北京を訪問する2日前、周恩来はをもてなすために、食事会を開いた。 「中国には『』という言葉があります」「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。 しかしその井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」と言ったという。 をこよなく愛したとされる。 一方で、周はもともと犬食を嫌っており(「戦争中、犬食好きな仲間によって周辺から集められた仔犬を使って出された犬肉料理に、周は怒って手を付けなかった」)、のちにやをへ招き宴会を行った際、給仕された料理に犬肉が使われていると知らず「大変良い味( 很好,很好,味道不錯呀!)」と答えたことの言質をとられてこの逸話が広まったとの意見 がある。 雨中嵐山 [ ]• このことはこの当時まだ周恩来が共産主義者ではなかったことを示している。 『パリの周恩来 中国革命家の西欧体験』(〈中公叢書〉、)に詳しい。 勤工倹学で留学した学生には中国政府から奨学金が下りる約束であったが、実際はほぼ全てを役人に横領されている。 林博文. 《張學良、宋子文檔案大揭秘》. 台北: 時報文化. 2007. 【『戦争と罪責』野田正彰(岩波書店、1998年)】• 中国網日本語版2010-11-18• 2019年2月9日閲覧。 2006年11月14日. 2019年11月2日閲覧。 Benite, Zvi Ben-Dor 2013. "Taking 'Abduh to China: Chinese-Egyptian Intellectual Contact in the Early Twentieth Century". In Gelvin, James L. ; Green, Nile eds. Global Muslims in the Age of Steam and Print. University of California Press. 264. 2018年6月29日閲覧。 JakartaGreater 2015年10月25日. 2017年4月15日閲覧。 2016年6月2日. 2017年5月24日閲覧。 2014年5月12日. 2018年6月28日閲覧。 杨明伟; 陈扬勇. 周恩来外交风云. 解放军文艺出版社. 1995. 357• RasTafari TV 2016年2月12日. 2018年6月29日閲覧。 Global Research 2018年5月26日. 2018年6月29日閲覧。 Cambridge Core 2013年6月1日. 2018年9月11日閲覧。 2018年9月11日閲覧。 2008年8月5日. 2016年11月5日閲覧。 2015年3月17日閲覧。 2016年11月5日閲覧。 「キッシンジャー回想録 中国 上 」第8章 和解への道 241~247P• 2004年7月6日. 2017年10月10日閲覧。 日本経済新聞. 2011年10月30日. 2017年4月15日閲覧。 武田晴人 『高度成長 シリーズ日本近代史 8 』 岩波書店〈岩波新書 新赤版 1049〉、2008年、196—199。 中国共産党中央党校理論研究室副主任であったがに著した『旋轉舞台上的周恩來』に「在查證『四人幫』的罪行中、發現那些文革中慘遭迫害的冤案、在逮捕令上幾乎都是周恩來的簽名、包括逮捕他自己的乾女兒孫維世」とある。 周恩来の治療について何らかの圧力によって最善が尽くされなかったことは周恩来の主治医張佐良が、自著『周恩来・最後の十年』で記している。 たとえば周恩来の癌の手術は完全には行われなかったし、抗癌剤治療も行うことが出来なかった。 主治医はその原因については、明確な記述を行っていない。 また作家が執筆した『』では、「毛沢東が治療の妨害を行った」と記述されている。 ユン・チアンがインタビュー・リストにこの主治医を載せていることは注目に値する。 かつて中国共産党中央文献研究室で周恩来の伝記の編纂作業に携わり、のを受けてアメリカ合衆国へ渡ったが、渡米後に著した『周恩来秘録』でも同じ結論が出されている。 2016年6月14日閲覧。 矢吹晋『毛沢東と周恩来』。 王效賢「」『人民中国』。 著書邦訳 [ ]• 『周恩来語録』 , 1972• 『周恩来日本を語る』 編、, 1972• 『周恩来・中国の内外政策』 編訳、, 1973• 『周恩来選集』 森下修一編訳、中国経済新聞社, 1978. 1~12. 23、編、訳、, 1999 参考文献 [ ]• 編『人間・周恩来 紅朝宰相の真実』(訳、、2007)。 33篇の評論集、で出版。 『周恩来秘録 党機密文書は語る』(上・下、訳、、2007/、2010)• 『周恩来・最後の十年 ある主治医の回想録』(訳、、1999)• 『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』(・訳、、1987)• 主編、・訳『周恩来伝 1949-1976』(上・下、、2000)、オンデマンド版2013• 金冲及主編、監訳『周恩来伝 1898-1949』(上・中・下、、1992-93)• 『長兄 周恩来の生涯』(・訳、、1996)• 『周恩来 機密会談録』(・監訳、岩波書店、2004)• 取材班『周恩来の決断 日中国交正常化はこうして実現した』(、1993)• 周恩来記念出版刊行委員会編『日本人の中の周恩来』(、1991)。 70名の文集• 『毛沢東と周恩来』(、1991)• 『周恩来と毛沢東 周恩来試論』(、1975)、オンデマンド版1999 関連文献 [ ]• 『周恩来と日本 苦悩から飛翔への青春』 ・編著、周恩来鄧穎超研究会訳、, 2002. 『毛沢東と周恩来 中国共産党をめぐる権力闘争「1930年~1945年」』 、訳、 2004. 関連項目 [ ] 中国語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、 周恩来に関連する および があります。 - 会長。 1974年12月の第2次訪中時に会見。 - 周恩来は吉野の「」に感動し、彼の家まで押し掛け面会を求めた。 - 留学時、周恩来は松本の下でを学んだ。 - 周恩来も多く触れられている。 - の楽曲であり、周恩来の氏名が歌詞で取り上げられている。 先代: 政務院総理から移行 - 次代: 先代: 設置 - 次代: 国務院総理へ移行 先代: 主席 - 次代: 先代: 設置 - 次代: 先代: (単独の副主席) (党内序列2位、副主席筆頭) - 次代: (第一副主席) 先代: 設置 - 、周恩来、、 、(1958年 - ) 次代: (単独の副主席).

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34 雷天大壮(らいてんたいそう)

らい ど おん たい む

事業内容 相談業務 成年後見制度や日常生活自立支援事業、福祉サービスの利用を必要とする人やその家族、支援者などからの相談を受けます。 成年後見制度利用支援 成年後見制度を必要とする方が制度を利用できるように、関係機関等と連携して、申立てに関する助言や手続きのお手伝いをします。 市民後見人の活動支援 市民参加型の権利擁護支援体制を構築するため、市民後見人活動のサポートやフォローアップ研修を行います。 普及・啓発活動 成年後見制度や日常生活自立支援事業への理解を深めていただけるように、制度に関する広報や研修会を行います。 援助困難事例などの相談対応 援助困難事例や虐待事例の相談について、専門職(弁護士、司法書士、社会福祉士)や関係機関の方などから支援方法の検討・助言を受けられるように調整します。 日常生活自立支援事業 認知症や知的障がい、精神障がい等により判断能力が不十分な方に対して、福祉サービスの利用援助や日常的な金銭管理を行います。 社会福祉協議会と利用者が契約を結んだうえで支援が始まります。 法人後見事業 津山市社会福祉協議会が家庭裁判所から選任を受け、成年後見人等としてご本人に代わって財産管理や福祉サービスの利用手続きなどを行い、安心して生活できるようにお手伝いをします。 ただし、法的なトラブルを抱えている場合など、状況により本会では対応が困難と判断した場合には別の候補者をご紹介させていただきます。 例えばこんな場合に• 福祉サービスを利用したいけどどうしたらいいの?• 大事な書類やお金の管理が不安だなぁ• 身寄りがないので将来が不安だなぁ• Right? 」と、暮らしを明るく照らす「らいと? Light? 」の2つの意味に、より積極的に権利を守る想いを込めて「おん? 」を加えて、市民の皆さんの自立した地域生活を送れるように支援するという意味が込められています。

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