表現 の 不 自由 展。 「表現の不自由展」何が問題だったのか~検証委員会第2回会合を傍聴して(江川紹子)

不自由展、作品に「不快」批判 天皇肖像燃やす表現 来場者「悪意に満ちていた」 愛知の芸術祭、企画展中止(1/3ページ)

表現 の 不 自由 展

現在の美術においては、世界的にこのタイプの芸術が堂々と認められている、ということは共有しておきたい。 パブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』によると、起源は1960年代。 共同でイベントを開いてコミュニティを活性化したり、銃社会に抗議するために住人から銃を集めて溶かしてモニュメントにしたりと、ダイレクトに社会に介入して何かを動かそうとするものである。 このようなアートのうち、「善」を志向するタイプの芸術は、芸術祭や、町おこしや、被災地復興や、「地域アート」などで、皆さんも良く目にしていると思う。 一方、エルゲラは、「不和 descensus」や「敵対antagonism」を表現するアートも重要であることを強調している。 それはしばしば非難され、弾圧される。 「非倫理的なアーティスティックな行為は、許容範囲を超えたり、非合法でさえあるかもしれないが、それは 社会の既成秩序に挑戦するときに芸術が果たす役割の一部であり、表現の自由はつねに擁護されなければならない」 p19。 今回の「表現の不自由展・その後」で論点・争点になるのは、ここなのではないかと思う。 このようなものを、日本の芸術は、そして、言説空間は、受け入れることができるのか、そうするべきなのかどうかが、潜在的な論点であろう。 コンテナの中の「難民」をネット中継 では「不和」と「敵対」とは何か。 このタイプの美術に大きな影響を与えた美術評論家のクレア・ビショップは、社会と関係する芸術のうち、「不和」や「敵対」を恐れない作品を評価し、擁護する立場を示した。 例として、クリストフ・シュリンゲンズィーフの《オーストリアを愛してくれ》(2000)が分かりやすい。 観光地として有名なウィーン国立歌劇場の横にコンテナを置き、中に本物の亡命希望者に暮らしてもらった。 コンテナの上には「外国人は出ていけ」と書かれた横断幕を掲げ、インターネットで生活が中継される。 ネット投票で不人気の難民が、次々に本物の拘留所に送り込まれる。 この作品は当然、憤激と議論を巻き起こした。 非難は多かったが、 移民や難民を排除しようとする排他的なヨーロッパの政治情勢を可視化し、実際の拘留所では巻き起こすことのできない議論を始められたことは事実であると、ビショップは評価している。 対話すれば、わかりあえるの?それとも… 「敵対antagonism」とは、むしろ「拮抗関係」と訳すべきかもしれない。 これはもともと政治学者ムフとラクラウの提示した概念である。 それは民主主義の限界であり、不可避な対立や不合意、異議申し立てをむしろ民主主義の基礎と見做す。 理性的に対話すればわかるはずだという「熟議民主主義」に対し、「人と人は分かりあわないし、対立する」ということを前提としそれを重視しようというのが、「ラディカル・デモクラシー」と呼ばれる立場であり、すごく単純化すると、「敵対」を推す立場の人たちが望む民主主義のあり方だ。 ムフ、ラクラウが注目する「敵対性」は、理屈や利害の対立ではなく、アイデンティティへの脅威を軸にして生じる。 だから、理性的な議論では解決が困難である。 今のSNSを見ていると、現状はそうだな、と説得力を感じないだろうか。 世界三大芸術祭というものがある。 ヴェネチア・ビエンナーレ、ドクメンタ、ミュンスター彫刻プロジェクトである。 今回のあいちトリエンナーレは、ドクメンタやミュンスター彫刻プロジェクト型の芸術祭を日本に導入しようとした試みのように見える。 ドクメンタは、ドイツのカッセルで開催される芸術祭だ。 ナチス・ドイツに「退廃芸術」として焼かれたものを復興させようとするところから始まっているので、ぎょっとするほど政治的である。 たとえば2017年は、ディレクターが(アウシュビッツのある)ポーランド人のAdam Szymczyk。 虐殺の加害国が税金を出し、被害に遭った国の人間にディレクションさせているのである。 テーマは、虐殺の原因となる差別であった。 ナチスドイツを扱う作品ももちろんある。 ヨーロッパに押し寄せている移民・難民の生活を思わせるシェルターやテントなどを模した作品がたくさん展示されている。 美術館の地下では黒人が労働をしている映像が流され、奴隷たちの労働の上に白人の美術や文化があることも突き付ける。 差別、暴力、収奪、戦争などが次々と俎上に上がっていく。 日本の美術に慣れていると面食らうほどに政治的なのだ。 ミュンスター彫刻プロジェクトは、ある彫刻作品の寄贈を巡って、公共性と芸術の関係について議論が起こったのがきっかけとなって始まった。 目指されているのは「対話」である。 作品を作る人、観る人たちがそれぞれ、地域と作品と対話し、その後、公共的な議論の場を作っていく。 これらが世界の芸術祭の潮流なのである。 あいちトリエンナーレ2019は、その意味では、世界水準の芸術祭を目指している、と言えると思う。 公共の議論を巻き起こす材料を提供することも、現在の芸術の役割のひとつなのだ。 「炎上」はネット時代の社会関与型芸術か? 以上確認したように、「表現の不自由展・その後」は、芸術か芸術でないかで言えば「芸術である」と言うしかないだろうと思う。 この場合の「芸術である」とは、価値を高く評価する、という意味ではない。 筆者の印象としては、今のところはイデオロギーが強すぎるし、造形的にもどうかなぁ、という気もする。 しかし、これまでに確認してきた芸術の動向を視野に入れれば、芸術ではないとは言えないのである。 ひょっとすると、 「不和」や「敵対」を顕在化させ、議論を巻き起こすことで「公共圏」「デモクラシー」を活性化させ、社会を変えることを狙った? と読めば、そのことの力をこそ評価しなければならないのかもしれない。 もしそう評価するとしたら、どうなるだろう。 「表現の自由」を巡る問題を可視化し、権力による圧力(これはニュースにもならないが、日常的に美術館では検閲に近いことは起きている)が存在していることが誰の目にも明らかになった。 生命を危険に晒さなければ言えないことがある状況であることも、ハッキリとしたと思う。 まさに感情的な「敵対」である炎上も巻き起こした。 まさにテーマである「情の時代」(情報、感情)の通りではないか(ガイドマップには、「メディアと芸術」「高度情報化社会の当事者性」という言葉もある)。 本人が認めようと認めまいと、そう「見る」ことはできるように思う。 しかし、だ。 理屈の上ではそうではあっても、どこか評価できない自分がいる。 他者の信仰や尊厳を不用意に踏みにじる行為を、良いとも感じない、というのが理由の一つではある。 しかしそれ以上に、 もはや「敵対」だけではダメで、その先が必要であり、そこに踏み込んでほしかった、と感じていることが大きい。 一般論として、日本の「空気」は意見を言いにくくさせていると思う。 言うべきことをはっきり言うようになったほうが生きやすくなるし、生産性も創造性も上がるだろうと思う。 しかし、だからといって「敵対」「炎上」を煽り続けるだけでは、対立と分断がより深まるだけではないか。 「不和」や「敵対」を前提としながらも、「理解」や「対話」に向かう、そういう不可能かもしれない未来を、アーティストたちには創造して欲しい。 おそらくあいちトリエンナーレで展示されている個々の作品はそれを志向しているはずだ。 アーティストたちが自主的に対話する機会を作ったのもその現れであろうし、個別の作品は、複雑で矛盾した人間や現実それ自体を繊細に見つめていた。 いかにして公共性や共同体を再構築するかというテーマもある。 同時代において同じように苦しみながら何かを手探りする者として、ぼくはそこに期待する。

次の

「表現の不自由展」で表現の自由が守られなかったことの真の問題

表現 の 不 自由 展

愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題で、同展の異様さが改めて浮き彫りとなっている。 元慰安婦を象徴する少女像などに加え、昭和天皇の肖像を燃やすような動画が展示されていたためだ。 「表現の自由」をめぐる議論が活発化する中、特定の政治性を帯びた侮辱や冒涜(ぼうとく)、ヘイト(憎悪)とも受け取られかねない作品に批判が相次いでいる。 「焼かれるべき絵」 問題の動画は、先の大戦を連想させる映像や音声が流れる中、コラージュ画に使われた昭和天皇の肖像を大写しにして、ガスバーナーで燃やしていく-という内容。 燃え残りの灰を足で踏みつぶすシーンもある。 企画展が中止となる前日の3日、動画を流すモニターの前には人だかりができ、来場者が顔をしかめたり、スマートフォンで撮影したりする姿もみられた。 説明書きなどによると、昭和61年、富山県立近代美術館(当時)に展示された昭和天皇の写真と女性のヌード写真などを合成したコラージュ画が県議会で「不快」と批判され、美術館は作品を売却するとともに図録を焼却処分した。 それが今回、燃やすシーンを挿入した理由とみられる。 モニターの近くには「焼かれるべき絵」とのタイトルで、昭和天皇とみられる軍服姿の、顔の部分が剥落した銅版画も掲げられていた。 来場した名古屋市の会社員男性は「結局、昭和天皇の戦争責任を問いたいのだろう。 悪意に満ちていて気分が悪かった」と吐露。 愛知県春日井市の自営業男性は「いくら表現の自由があるとはいえ、天皇の肖像を焼くような動画を行政が支援するイベントで見せるのは行き過ぎ」と話した。

次の

「表現の不自由展」で表現の自由が守られなかったことの真の問題

表現 の 不 自由 展

門田 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」(以下、「不自由展」)の展示が2019年10月8日、再開されました。 河村さんは再開当日、会場となっている愛知芸術文化センター前で、座り込みをされましたね。 河村 本当は会場内で抗議したいのですが、強引に会場に入ると、またつまらん非難を受けますから、外で座り込みをしました。 門田 芸術監督の津田大介氏は、河村さんの座り込みに対して、ツイッターで「座り込みよりかはハンガーストライキの方が政治的効果は高いんじゃないですかね」と書き込みました。 批判が殺到したため、書き込みは削除しましたが、このことに対してどう思われますか。 河村 完全に馬鹿にしていますね。 門田 また、大村秀章知事もツイッターでこう非難しています。 「まさか、こんなことをするなんて。 衝撃です。 制止を振り切って、県立美術館の敷地を占拠して、誹謗中傷のプラカードを並べて、美術館の敷地の中で叫ぶ。 芸術祭のお客様の迷惑も顧みず。 常軌を逸してます」 「河村さんの今日の行動は、右翼団体と称する方々と共同で、事実と異なるプラカードを並べて、ヘイトまがいのスピーチをしたものです。 それも、県立美術館の敷地を占拠して。 とても、公職者の方がやられることとは思えません。 極めて危険な行為です」 河村 私がまるで暴力的に抗議しているかのような書きぶりですが、そんなことはありません。 私に言わせれば、実行委員会の会長代行である私に何の話も通さず、一方的に再開を決めた大村知事のほうがはるかに暴力的ですよ。 展示再開で、大村知事を権力に屈しなかった英雄のようにマスコミが持ち上げているのも違和感があります。 大村知事は強引に展示を再開することで、今回、自身の権力を誇示、アピールしました。 私からすれば、大村知事は反権力側ではなく、むしろ権力側の人間なんですよ。 それをマスコミが「よくやった!」と持ち上げている。 門田 大村知事のリコール運動だとか不信任決議案提出とかまで問題が大きくなるかと思ったら、そこまではいきそうもありませんね。 愛知県はいったいどうなっているんだと、県外の人間は歯噛みしていますよ。 河村さんを支持する声はネットで圧倒的です。 たとえば、夕刊フジが「表現の自由」をめぐり、大村知事の「内容は問わない」(=テレビ番組で『憲法上の公権力者の首長が、表現や芸術などの内容について、これが良いか悪いかとかは言ってはならない』と発言)と、河村さんの「限度はある」という発言、どちらに賛同するかというアンケートを取ったら、河村市長支持は93%、大村知事支持は4%で、圧倒的に河村さん支持が多かった。 愛知県民がこの問題で大村知事を追及しないのは、中日6割、朝日2割という愛知の特殊な新聞占有率の影響が大きいのでは、と思っているのですが。 河村 県民というより、県議、市議の劣化が大きいのではないでしょうか。 いま、政治家が「稼業」になってしまっています。 とにかく、名古屋の議員、市議は給料がいい、極楽の商売なんです。 愛知県はトヨタ自動車がありますから、税収も高い。 稼業として政治をやっている人間からすれば、トップの人間とは仲良くして波風を立てないほうが得策です。 本来なら、今回の問題、県議会は徹底的に大村知事を追及すべきなのに、議会が動かないのはそういう背景があります。 門田 しかし、大村知事をこのまま放っておくわけにもいかないでしょう。 私がツイッターで「愛知県民は大村知事のリコール署名を始めるべきだ」と書いたところ、名古屋市民の方で賛同してくださる方が少なからずいました。 大村知事と知事選で戦う可能性はありますか。 河村 総理大臣なら手を挙げたいところですが、県知事なら町内会長になったほうがいい、というのが私の持論です。 地方政治をやるなら、とくに名古屋のような政令市の場合は、市長のほうがやれることの範囲が広い。 それに、私は生まれも育ちも名古屋。 郷土愛も強いし、愛着もある。 県知事は、どなたかいい人が出てくればいいなと思います。 門田 おっしゃるように、議員の劣化もありますが、新聞をはじめとするマスコミの、「不自由展」をめぐる報道のひどさは常軌を逸しています。 まず、展示内容を正確に報道しない。 まさか中止になると思わずに、私は8月3日の昼、「不自由展」を観に行ったんです。 入り口の白いカーテンをめくって、なかに入ると、いきなり昭和天皇を髑髏が見つめている版画や、「焼かれるべき絵」と題する昭和天皇の顔を白く剥落させ、うしろに大きく赤でバッテンをつけた銅版画が展示されており、その先には、昭和天皇の肖像を燃やし踏みつける映像作品がありました。 このなかで画面が切り替わって、若い日本の女性が母親への手紙を読み上げるシーンがあり、「明日、インパールに従軍看護婦として出立します」というセリフを口にする。 私は戦争ノンフィクションも書いており、インパール作戦の生き残りにも実際に取材し、本にしています。 この作戦は、補給もないまま2000メートル級のアラカン山脈を越えていく過酷なもので、看護婦がついていけるような作戦ではありません。 史実にまったく拠っていない滅茶苦茶なものだと思ったし、そのほかにも、日本兵を侮辱する作品や少女像もあるしで、目がくらむような思いがしました。 河村 私が最初に、少女像の展示があると聞いたのは、7月31日、「あいちトリエンナーレ」のレセプションの最中でした。 それまで、まったく展示の内容については聞かされていなかったんです。 能天気にレセプションで、「燃えよドラゴンズ、燃えよトリエンナーレ!」と歌っていたくらいですよ(笑)。 レセプションには1000人くらい集まっていたと思います。 そこで津田さんが挨拶で、20分も30分も大演説しているんです。 津田さんが挨拶のなかで、文化庁の人間が来るとか来ないとかという話をしているので「何か変だな」と思い、隣りの人に「どうなっているんだ」と訊いたら、「慰安婦像が展示されているそうですよ」と。 「え!? そんな馬鹿な……」と信じられませんでした。 最初は展示してあると言っても、まぁ慰安婦像の新聞記事を使った作品があるのだろうくらいに思っていたのですが、翌日、松井一郎大阪市長から「あいちトリエンナーレで、慰安婦像が展示されているらしいじゃないか」と電話があった。 実行委員会の会長代行として責任もありますし、さすがにこの目で確かめないといけないと、翌八月二日に視察したんです。 そうしたら、いま門田さんがおっしゃったような作品が展示されており、本当に度肝を抜かれました。 こんな日本人の、国民の心を踏みにじるものを名古屋市主催でやるわけにはいかないと、作品の展示を中止するよう大村知事に求めたわけです。 門田 しかし、河村さんがいくら記者会見で昭和天皇の肖像を燃やす作品について報じてくれと言っても、新聞は書きません。 「一部の保守派が少女像に反発し、表現の自由を圧迫している」という図式で報じたいから「少女像など」と書いて矮小化するのです。 朝日はさすがに触れないとまずいと思ったのでしょう、「昭和天皇を含む肖像群が 燃える映像作品」(太字編集部)と表現していますが、これもひどい。 真実を伝えていません。 そこに朝日の黒い意図があります。 何かがあって「燃えている」のだったら怒る必要はないからです。 しかし、実際は「燃える」などというものではなく、「昭和天皇の肖像をバーナーで焼き、燃え残りを足で踏みつけている」んですよ。 しかし、そのことは決して書かない。 なぜかといえば、作品群の真実を報じたら、問題の「不自由展」に展示されているものがいかに「表現の自由」を逸脱しているかがバレてしまうからです。 河村 あの作品の意図は天皇への侮辱ではないという人がいますが、本当にそうでしょうか。 燃やすだけならマッチでもいいはずなのに、あえてバーナーを使っている。 しかも、最後には燃え残りを踏みつけるわけで、そこに「暴力性」 「侮辱性」を感じるのは私だけではないはずです。 門田 NHKもひどかったですね。 河村さんが座り込みをしたときに、「日本国民に問う! 陛下への侮辱を許すのか!」と書いたプラカードを掲げていました。 しかし、NHKは報道するとき、そのプラカードが映らないように報道した。 真実を報じるという報道機関としての使命を放棄したとしか言いようがありません。 河村 マスコミが報じない、今回の問題のポイントは4つあります。 1つは、会場となっている愛知芸術文化センターが愛知県のものであることです。 会場を貸し出す時には規定があって、たとえば東京都美術館であれば、特定の宗教、政治に偏らないこと、と定めています。 愛知県の場合も「多くの人が不快の念を抱かないこと」と定めており、「不自由展」はそれに反している。 2つめは、名古屋市主催であること。 主催するとはどういうことか。 たとえば名古屋市には、さまざまな団体から後援してほしいと申込みがあります。 なぜかと言えば、彼らは行政のお墨付きがほしいからです。 「うちの団体は知名度こそ低いが、催しには名古屋市のお墨付きをもらっている、しっかりした団体ですよ」と。 主催は後援よりも、もっと「お墨付き」「応援」の意味合いが強くなります。 名古屋市主催で天皇陛下を侮辱するような作品を展示するということは、そういう行為を名古屋市が「いいことですよ」とお墨付きを与え、応援していると受け取られてしまう。 規模は違いますが、東京オリンピックで考えてみてください。 開会式の日に行ったら、メインスタンドに慰安婦像や昭和天皇の肖像をバーナーで燃やす映像作品が飾ってあったとしたら、大問題になるでしょう。 それと同じですよ。 だから私は、津田さんや作家に「こういう表現はやめてくれ」と言ったことは一回もないんです。 別に反政府、反皇室的な表現はしても構わない。 ただ、名古屋市主催だと問題があるから、自分たちでお金を集めるなりして、どこか別の場所でやってほしいと言っているだけなのです。 門田 要するに公金、つまり税金によって展示されていることが問題なのです。 河村 それが3つめのポイントです。 補助金の半分は名古屋市民の税金。 もちろん、なかには反皇室、反政府的な思想の人もいるでしょうが、圧倒的多数は皇室に敬意を払っています。 その多数の人たちの気持ち、「表現の自由」はどうなるのか。 門田 大村知事は展示中止を求めた河村さんに対し、「(表現の自由を保障する)憲法21条に違反している疑いが非常に濃厚」と批判しましたが、それを聞いたとき、「はぁ?」と開いた口が塞がりませんでした。 表現の自由は、長い時間をかけ、多くの犠牲を払って人類が獲得した崇高なものです。 だからこそ表現の自由を行使するときには、自ずと「節度」と「常識」が求められます。 憲法12条にも、これを「濫用してはならない」と規定されている。 それを無視して、人々が不快に思い、ご遺族(注=ここでは「天皇家」)が傷つく作品を税金まで使って展示しているのです。 大村知事は、表現の自由が「無制限」であるという考えに立脚しています。 大変な誤りです。 「公的な場であるからこそ多様な表現が保障されるべきだ」と大村知事は言っていますが、それに従うなら、日本では児童ポルノ作品でもカニバリズム作品でも、何でも認められることになってしまいます。 自分がどれほど恐ろしいことを口にしているか、まったく気がついていない。 あり得ないですよ。 河村 大村知事は、展示中止を要請した私に対し、「憲法21条で禁止された『検閲』ととられても仕方がない」と批判していますが、国民から税金を預かる立場の者として、最低限、公共性のチェックは必要。 憲法15条2項にはこう書いてあります。 「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」 つまり、公務員は大方の人が納得できるように物事を進めなければならないのです。 そして4つめのポイントが、展示内容が隠されたまま申請された疑いがあることです。 「最初、表現の不自由展実行委員会から、私のところに(作品を)出してくれと。 ただし、普通には出さない。 隠して出す。 そう言われた時に、『それはおかしいんじゃないか。 堂々と出したらどうか』と言ったら、『なかに慰安婦の像がある。 これはいま出したら問題だから』と言われた」 「ちょっと作家を馬鹿にしてんじゃないの。 俺たち芸術家だよと。 自分で作ったものをそういうふうに出したこともないし、尊厳はないのかということを言った。 そうしたら、『慰安婦の像で問題になるだろうから』と。 炎上することを最初から分かってやったのかなと、あとからそういう気がした」 中垣さんは津田さんに電話をかけ、「我々出品者の名前・情報が事前に出ていない。 こういうことはあり得ないぞ」と言ったら、「必ずあとで出す」と言っていたそうです。 中垣さんとは私も電話で直接話し、この発言について確認しましたが、間違いないようです。 もしこれが本当だとしたら、補助金適正化法違反です。 29条にはこうあります。 「偽りその他不正の手段により補助金等の交付を受け、又は間接補助金等の交付若しくは融通を受けた者は、5年以下の懲役若しくは100万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する」 門田 中垣さんの話が本当なら、完全にこれに当てはまります。 公金の詐取ですね。 河村 9月20日、大村知事宛に出した公開質問状にも、実行委員が「隠して出す」と言ったかどうかについても書きましたが、「増加する仕事量を限られたマンパワーで対応しており、現状では一同大変疲弊している」などと言って回答を先延ばしにし、現時点(2019年10月13日)でもまだ回答はありません。 門田 大村知事が直接、津田氏に「尖った芸術祭をやってくれ」と依頼したわけでしょう。 しかし、いくら河村さんがいまおっしゃったようなことを訴えても、新聞にもテレビにも出ません。 その統制力はすさまじいですね。 「悪の河村」と「善の大村」という、自分たちの主義主張のために、不都合な事実は隠し、捻じ曲げていく。 政治的公平を謳った放送法4条にも明らかに違反しています。 河村 ジャーナリズムが「真実を伝える」という大前提を守ってこそ、「表現の自由」は担保されるんです。 中日新聞は、「『不自由展』中止 社会の自由への脅迫だ」と題した社説で私を批判しましたが、何を言っているのか。 マスコミが真実を伝えないから、代わりに社会の自由を守ろうとしているんですよ。 門田 おっしゃるとおりですね。 私には、表現の自由を標榜しながら、マスコミ自身が表現の自由を圧迫しているようにしか見えません。 河村 門田さんが指摘されたように、テレビには一応、放送法があり、4条でこう定めています。 限られた電波帯を使用する放送とは違い、新聞は誰でも発行することができるからですが、そうは言っても、一部の全国紙がかなりの影響力を持ってしまっています。 編集権は認めたうえで、きちんと公平性を規定する法律があってもいいのではないでしょうか。 門田 新聞、テレビしか情報源を持っていない人のことを「情弱」(情報弱者)と言いますが、ネットユーザーと「情弱」の間で、いまやとてつもない情報格差が生まれているんです。 新聞、テレビしか見ない人は「河村というのはひどい市長だな。 少女像のことであんなに怒って」と思っている。 「情弱」には、この対談で語られたような問題点は伝わっていないのです。 しかしネットが使える人は、ちょっと調べれば、たとえば、昭和天皇の肖像がバーナーで燃やされ、燃え残りが踏みつけられる映像も実際に見ることができますから、マスコミのミスリードに気がつきます。 河村 マスコミのなかにいる人たちは、門田さんのような人よりも上司の顔色を気にする「ヒラメ社員」がほとんどでしょう。 古株の左翼上司、門田さんの言葉を借りれば、事実よりも観念論の「ドリーマー」の方針に逆らえず、彼らの方針に従っている。 社内の壁があるとは思うけれど、上司の方針に楯突いてみろと言いたい。 それもできないで、なにが反権力ですか。 ジャーナリストではなく、「忠実な社員です」と言ってほしい。 夢見る人、観念論者と現実を見ている人との戦いです。 真実を伝えなければならないマスコミが、ドリーマーたちに占められていることは日本の不幸です。 しかし、これほどまでマスコミの劣化が白日の下に晒された事件も珍しいですよ。 自己の主張に都合のいいように一部を切り取り、重要な部分を故意に「欠落」させて大衆を誘導することを「あたりまえ」だと考えている日本の新聞、テレビは、そう遠くない将来、誰からも顧みられなくなるでしょう。 ネットしか信じられない時代をマスコミ人が自ら創り上げているのは嘆かわしいことです。 (初出:月刊『Hanada』2019年12月号).

次の