鎌倉 幕府 滅亡。 鎌倉幕府滅亡後、北条与党はかく戦えり

悪党とは?わかりやすく紹介【鎌倉幕府の滅亡を悪党から考えてみる】

鎌倉 幕府 滅亡

鎌倉幕府は、源頼朝によって樹立された武家政権です。 学生時代は「いい国(1192)作ろう、鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えたことがあるかと思います。 成立以降約150年間にわたって国政を動かしたその幕府は、一体どんなものだったのでしょうか。 成立年 一般的には源頼朝が平氏を滅ぼして守護・地頭を各地に置き、警察・軍事権を朝廷から公認された1185年とされています。 しかし、1180年の頼朝挙兵からという説や、おなじみ1192年の頼朝が征夷大将軍に任命されてからという説などもあります。 将軍 鎌倉時代、将軍は「鎌倉殿」と呼ばれていました。 初代鎌倉殿は創設者である源頼朝、その死後は頼朝の嫡男である源頼家が2代目となりますが、北條氏により将軍職を剥奪され、最終的に暗殺されてしまいます。 3代目となったのは頼朝の4男・実朝。 12歳で将軍となった実朝は若くして右大臣になるなど、着実に昇進していきますが、26歳の時に頼家の息子に暗殺されました。 ここで頼朝の子孫は絶えたため、4代目・5代目は藤原氏から、6代目から9代目までは皇族が将軍として迎えられました。 これは朝廷に対抗し、御家人たちに一目置かれるために高貴な血族であることが重要視されたためです。 北条氏は執権という役職に就き、2代目将軍以降実権を握り続けていました。 所在地 鎌倉入りした頼朝は1180年に大倉に御所(政治をおこなう場所)を置き、邸宅として暮らしていました。 これを大倉幕府と呼びます。 この御所は45年間続きますが、北条政子が亡くなったことをきっかけに北条氏が宇都宮辻子へ移動(宇都宮辻子幕府)。 その11年後、さらに若宮大路へと御所を移しました(若宮大路幕府)。 どの御所も現在の鶴岡八幡宮(鎌倉市)の近くであったとされています。 それぞれの跡地の所在は以下の通りです。 大倉御所幕府跡地:鎌倉市雪ノ下• 宇都宮辻子幕府跡地:鎌倉市小町• 若宮大路幕府跡地:鎌倉市雪ノ下 仕組み 3代目執権・北条泰時が武士のための法律・御成敗式目を作成。 武家政治を確立しました。 また、幕府と御家人をつなぐ「御恩と奉公」という仕組みも作られました。 御家人が幕府のために働く「奉公」と、それに報いて幕府が御家人に土地などを与えるのが「御恩」となります。 1274年と1281年に元(モンゴル帝国の属国、高麗王国)が日本に攻め込んだ戦い、元寇が起こります。 日本は大きなダメージを被りながらも元を撃退。 この際に戦った御家人に対して幕府は、元を追い返しただけで特に得られたものがなかったため、十分な御恩を与えることができませんでした。 骨折り損の御家人たちは不満を募らせます。 また、政権を実質的に担っていた北条氏も、9代目執権である北条貞時は政務を真面目に行わず、その立場ももはや形ばかりになっていました。 そのため、補佐役であった長崎高綱(ながさきたかつな)と安達時顕(あだちときあき)が実権を握り、彼らは不満を訴える地方や寺社に対して高圧的に対処します。 いい加減な幕府に対する不満が方々で募っていたと頃に、政治の中心を天皇とする体制に戻したい後醍醐天皇の倒幕計画に多くの御家人が参加。 計画が露呈したことで天皇は島流しとなりますが、それによってさらに多くの武士たちが幕府に反旗を翻します。 有力御家人であった足利尊氏も寝返り、1333年の激しい戦いの末に鎌倉は陥落、北条一門は滅亡。 将軍は辞職して出家をしました。 こうして、鎌倉幕府は滅亡します。 源頼朝について 【生い立ち】 源義朝の三男として生まれましたが、母の家柄が高かったため、頼朝が嫡男の待遇を受けていたようです。 父とともに平氏との戦いに参加するも敗北。 父や兄は殺されますが、清盛の母の嘆願により、頼朝は死刑を免れて伊豆へ流罪となります。 そこで監視役だった北条時政の娘・政子に出会いました。 【挙兵】 その後、1180年に以仁王が全国の源氏に平氏討伐の令旨を送ります。 それを知った平氏が源氏討伐を行うこととなり、自身の身の危険を感じた頼朝は伊豆から挙兵します。 伊豆を制圧石橋山の戦いで敗れて逃亡。 そこから協力者、配下を着実に増やしていき、ついには鎌倉を本拠地として関東を平定しました。 源氏平氏だけでなく各地の豪族たちを巻き込んだ戦いの最中に、平清盛が死去。 1185年壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しました。 【義経との別れ】 朝廷から勝手に任官を受けてはならないという決まりを破った武士たちには罰を与えた頼朝ですが、弟である義経にはそれをしませんでした。 そんな中で、義経の勝手な行いに対して周囲から非難が高まり、頼朝は御家人に対して義経に従わないように命令を出します。 2人の溝は深まり、ついに義経が後白河法皇に頼朝追討の命令出すことを依頼し、宣旨が下ります。 対して頼朝自身も出陣。 義経は味方が集まらず、逃げる途中で行方不明となりました。 【幕府の基礎作り】 頼朝は朝廷に対しても怒り、法皇の代官を追い出すなど強硬な態度に出ました。 それに焦った朝廷は、義経らを捕まえるための命令を関係諸国に下します。 また頼朝は義経を捕まえるという目的で、諸国を取り締まる守護・地頭の設置することを朝廷に認めさせました。 その後、奥州藤原氏に匿われていた義経を発見し、自害に追い込みます。 鎌倉に本拠を構える頼朝にとって常に不安材料であった奥州藤原氏も討ち、平定することとなりました。 【征夷大将軍へ】 頼朝は長らくわだかまりのあった後白河法皇と何度も対話を重ね、これを払拭。 頼朝の諸国に対する守護権が認められました。 後白河法皇の崩御後、1192年に頼朝は征夷大将軍に任命されます。 晩年は地方支配の強化に努めましたが、1198年に体調を崩し、翌年に亡くなりました。 北条政子について 【頼朝との出会い】 1157年、伊豆の豪族であった北条時政の長女として生まれました。 時政は伊豆に配流されていた頼朝の監視役でしたが、その父が上京している間に政子と頼朝は恋に落ちます。 周囲の大反対を押し切って、2人は結婚。 政子はすぐに長女を出産しました。 頼朝が挙兵後は離れて暮らすこととなりますが、鎌倉幕府が樹立し、頼朝が居住すると政子もそこへ移り住みます。 そこで頼朝は鎌倉殿、政子は「御台所」と呼ばれるようになりました。 【尼将軍として活躍】 頼朝の死後は出家をして尼となり、尼御台と呼ばれるようになりました。 息子である頼家が家督を継いだ後も、その不祥事を自ら収め、息子に対しても厳しく戒めました。 それでも失政を続けて幕府に混乱を招いた頼家を政子は出家させ、将軍職を剥奪。 伊豆に幽閉します。 その後、自身の次男である実朝が次の将軍となります。 実朝の方は優秀で、異例の速さで昇進していきました。 しかし周囲からの不満が募るなか、頼家の子供によって実朝は暗殺されました。 政子は4人の子供たちを産んでいますが、うち3人はすでに死去。 実朝が亡くなったことにより、全員母よりも先に死んでしまったのです。 頼朝の子孫が途絶えたため藤原摂関家から将軍を迎えましたが、まだ2歳だったこともあり、政子が将軍の後見役を務めて「尼将軍」と呼ばれるようになりました。 後鳥羽上皇と幕府の対立が深まり上皇が挙兵をした際も、動揺する御家人たちに対して演説を行い、彼らを収めます。 軍議では攻め込まないという防御策を勧める声が強かったところ、政子の裁断で出撃が決定。 それを予想していなかった上皇は焦って敗退し、降伏します。 その戦の事後処理も政子が北条義時とともに行いました。 1225年、69歳で病死しました。

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鎌倉幕府の滅亡

鎌倉 幕府 滅亡

スポンサーリンク 海の向こうから蒼き狼の孫が突如攻めてきた! 御恩と奉公が崩壊? 鎌倉時代は、「御恩」と「奉公」の関係で成り立っていました。 そもそも御恩と奉公ってなに?ってなりますよね?御恩とは、将軍(主人)が御家人(従者)へ与えた利益を御恩、御家人が将軍へ与えた利益を奉公といいます。 具体的にそれぞれの利益ってどのいうことか?それは、幕府のために戦ってくれた武士に褒美として「土地」を将軍は与えていました。 逆に、御家人たちは土地をもらっていたので、がぜん「この人のためならがんばれる!」と忠誠心を持っていたのです。 長らく御恩と奉公の関係で、鎌倉幕府は成り立ってきましたが、武士といえども長期政権となると徳川と同じように中だるみで「貴族化」してしまうのです。 将軍にはなっていませんが、平氏もそうですよね。 だんだんと主従関係が崩れ始めていました。 鎌倉幕府の初代将軍は、源頼朝ですが源氏直系は三代目で途絶えているのです。 頼朝の長男で二代将軍・頼家、次男で三代将軍・実朝ともにお家騒動に巻き込まれ、暗殺され、四代目以降は、公家の九条家や天皇家の親王などが代々将軍の座につきました。 すると、今までは補佐役だった頼朝の妻・政子の実家の「北条氏」が実権を握ってしまいます。 当然将軍は名前だけのお飾りに。 そんな中、「元」という国が日本へ攻め入ってきたのです!「元」というのは、現在のモンゴルを中心とした国家で、西は東ヨーロッパやトルコ、東は中国や朝鮮半島、南はアフガニスタンやチベットなど広大な大帝国でした! 朝鮮半島を統一し、海の向こう側「日本」が気になり始めます!「日本も手に入れたい」と第5第皇帝の「クビライ」は思うのですね。 元は朝貢といって、貢物を外交使節団に持たせて日本へ派遣させます!まずは、貢物から貿易を始めて、ゆくゆくは元の支配下にする。 このようながあったと思われますね。 ところが、鎌倉幕府は頑としてこれ拒否!御家人と強い主従関係に結ばれていた幕府には怖い者などいなかったのです。 敵がついに襲来! 劣勢と思いきや「神風」が起きた? 1274年、鎌倉幕府に突っぱねられた元はついに大軍の船で博多湾に上陸!ついに「元寇」が起きます!そもそもこの「元寇」という言葉は後から付けられた言葉で、当時は「蒙古襲来」といわれていました。 そういえば、亡くなった私の祖母もモンゴルではなくずっと「蒙古」と呼んでいましたね。 世界の4分の1を支配していた大帝国の元と小さな島国の日本。 どう見ても日本の勝ち目は薄いですよね?しかし、九州の御家人たちが一応近々来るのではと防波堤を築いていました。 そして両者は海岸で激突します!当時の日本の戦の仕方は一対一の「一騎打ち」が基本でした。 「拙者は」とか挨拶から始めて、馬上からの斬り合いでした。 しかし相手は外国の元です。 挨拶とかしているうちにバンバン矢とか手りゅう弾が飛んできます! 大敗した九州の御家人たちは、一時大宰府へ逃げます。 その間、突如「神風」が起きて元の大軍は慌てて帰ってしまうのです。 ここからの日本の「神風神話」が誕生するのです。 けれども本当に「神風」で元が帰ってしまったのでしょうか? 私は神風ではなく、「場所」と「季節」が関係しているのではと考えました。 博多湾に上陸したということは、海は玄界灘です。 九州の方はご存知だと思いますが玄界灘は荒れることで有名です。 そこへもって、時期が11月中旬。 寒冷前線が来る季節。 海が荒れに荒れて、大破する船が続出します! 結局、日本は場所と季節に助けられた感がありますね。 九州の御家人たちは事なきを得ます。 その間幕府はなにしているのよって感じですが。 笑 一度は引き返した元ですが、なんとしても日本を手に入れたかったので、またも上陸します。 笑 前回失敗を教訓にした日本は、高さ2メートルに渡る防波堤を海岸線に作ります。 防波堤を作るのも御家人の仕事。 ご苦労様ですと言いたいですところですね。 元も考えます!季節を5月に変更し、二軍に分かれてやって来ます!モンゴルと高麗の「東路軍」と、元に降伏した南宋の「江南軍」でした。 東路軍が先に博多湾に上陸しますが、前回とは比べ物にならない防波堤がありました!今度は叩きのめしてやると、御家人たちは獅子奮迅の活躍を見せ、東路軍はなかなか船から陸上に降り立つことができません。 一方で、南宋の人間で結成され、今の中国の長江側から江南軍は一向に現れません。 もともと無理やり戦わされている軍だから士気が低いのです。 そして、江南軍が上陸した頃に「台風」が発生します!東路軍と江南軍の両軍の船が台風によって大破や破損して、戦どころではなくなってしまいます。 ほどなくして、両軍は元へ撤退するのです。 私は、神風の原因は「台風」と「御家人たちの努力」だと思いますね。 台風は自然発生の現象ですが、努力は御家人たちが命がけで幕府を守ろうと一丸になったからだと思います。 それは「御恩」(土地)ですね。 元の大軍を蹴散らしたわけなので、莫大な土地をもらえると御家人たちは浮足だっていました。 今一度、冷静に考えてみて下さい!本来の御恩と奉公は、日本での戦で敵を倒して敵の土地を横取りすることで成り立っていました。 けれど、相手は外国です。 当然与えられる土地はありません。 いうなればただ働きさせられた御家人たち。 この時から御家人たちの鎌倉幕府への不満が募っていくのです!それもそのはず。 御家人たちは全部自腹で戦に参加していたのです。 鎌倉幕府崩壊の序曲、新たなキーパーソンたち! 元寇を境に、鎌倉幕府を統括していた、執権・北条氏の力のなさが徐々に露呈していきます。 もはや、武士じゃなく貴族化していた北条氏。 かたや、御家人たちはあれほど命をかけて戦ったのに、見返りはなし。 案の定生活は苦しくなっていきます。 生活に困窮し始めた御家人たちの中には、土地を担保にお金を借りる者たちが現れます。 幕府も鬼ではないので、貧しい御家人たちを救おうと考えます。 「永仁の徳政令」というお触れを出します。 内容は、担保に出された土地を無料で返却するように命令するものでした。 けれども、徳政令の効果は一過性のもので、逆に悪循環になってしまいます。 土地を貸す側が、御家人に貸しても幕府が後ろ盾では貸したお金が返ってこないと、貸し渋るように。 せっかく、御家人たちを助けようした政令は裏目に出て、かえって反感を抱かせます。 執権・北条貞時は、政務を放棄しアル中な生活を送るようになっていました。 当然、政治の実権は側近たちのものに。 混沌とした時代の中、体たらくの幕府に反旗をひるがえす者たちが出現します!その中の一人が「後醍醐天皇」です。 もとは武士なのに貴族化した北条氏に対して、天皇でありながら武士っぽいのが後醍醐天皇なのです。 武士による政治が当たり前となっていたのを、もう一度朝廷が政治を行う「新政」を強く望んでいた天皇。 この頃、執権も北条貞時から息子の高時に代替わりしていました。 高時この時わずか16歳。 元服は済んでいたにせよ、現代で言ったら未成年で高校生ぐらいですよね。 とうぜん政治の実権は、長崎円喜などの側近たちににぎられていたのです。 その間、着々と後醍醐天皇は、朝廷での政権を目指し「倒幕計画」を進めます!しかし、信頼していた家臣の一人・吉田定房が幕府に密告してしまい、計画は頓挫します。 側近中の側近で、もとは花園天皇の蔵人(天皇の秘書的な役職)をしていた日野俊基が佐渡島へ島流しにされてしまいます。 それでも、後醍醐天皇あきらめないのです。 意思が強いというかしつこいというか。 笑 結局倒幕計画は「正中の乱」として失敗に終わり、辛くも京都を脱出。 二度目の倒幕を試みた後醍醐天皇は、またも事前に計画が発覚してしまい、今度は自身が隠岐の島へ島流しに。 これが世にいう「元弘の変」です。 武士でなくあくまでも天皇なので、この辺の計画性が甘かったのでしょうか? 田舎武士ついに挙兵する! 二人目は、楠木正成です。 後醍醐天皇が隠岐の島へ流された後、各地で続々と討幕運動が盛んになっていきます。 これは、後年の徳川幕府時の幕末と似たところがありますよね。 鎌倉から遠く離れた河内(現在の大阪府あたり)の御家人だった楠木正成。 正成は、弘元の変のとき最初の挙兵をしますが、幕府軍に敗北。 その間、後醍醐天皇は隠岐の島から脱出に成功し、出雲(現在の鳥取県)の豪族・名和長年にかくまわれます。 そして、出雲の船上山で各地の御家人たちに、鎌倉幕府は朝敵であると宣言し、通達するのです。 後醍醐天皇の宣言を聞いた正成は再度挙兵します。 正成は、田舎武士らしくゲリラ戦や崖から石を投げる攻撃などを展開。 幕府軍を苦しめました。 この正成の活躍に触発され、赤松円心など有力御家人たちが挙兵したのです。 最後に天下を取った男は、裏切り者だった? 次に、ご紹介するのは足利尊氏です。 尊氏の「尊」という字。 実は、後醍醐天皇の御名「尊治」の一字からもらっているのです。 なので、一見天皇の側近なのかなと思いますよね?いえいえ幕府側の人間でした。 笑 この時は、まだ「高氏」という名前でした。 祖父・家時が自害に追い込まれ、父・貞氏とともに、北条氏に虐げられた生活を余儀なくされます。 執権・北条高時は、政治そっちのけで闘犬や田楽という芸事に熱中し、ことあるごとに尊氏を馬鹿にしていました。 この辺は、大河ドラマ「太平記」での高時役の片岡鶴太郎さんと尊氏役の真田広之さんが見事に演じていましたね。 後醍醐天皇を討つべく、幕府は尊氏を総大将に任命し、名越高家とともに京の都へ西上させます。 ところが、高家は赤松円心の軍勢に討たれ、尊氏はピンチに陥ります。 普通ならここで、「殿(高時)のために」と敵が迫ろうとも獅子奮迅の活躍を見せるところです。 だが、尊氏はあっさりと朝廷側へ寝返ってしまうのです。 笑 今までの虐げられた復讐か、はたまた風見鶏なのか?この時、尊氏は病気を患っていましたが、高時が圧をかけるのです。 今でいう「パワハラ」ですね。 しかも父・貞氏が亡くなっていたので喪に服していたところでした。 肉体的にも精神的にも疲弊していたところでの出兵。 尊氏としては「やってらんねえよ」ってなったわけです。 笑 すぐさま、尊氏は船上山にこもる後醍醐天皇に密使を送ります。 朝廷側に味方することが書かれた文書を託したのです!つまり、総大将に任命されてすぐに寝返る気満々だったのです。 抜け目ないですね尊氏。 笑 一路、京の六波羅探題(鎌倉から遠い京都を監視する目的で作られた機関)を目指します!慌てたのは、乱を起こして天皇の座から後醍醐天皇に変わって新しく天皇になった「光厳天皇」やその父である「後伏見上皇」ら幕府側の人たちでした。 尊氏や赤松円心などの御家人連合軍と、六波羅軍が激突します!圧倒的に、御家人連合軍の方が戦上手でした。 なんというか野武士なのです。 一方六波羅軍は、北条幕府軍やら六波羅の公家たちで構成された「貴族」です。 はっきりいって弱かった。 怖いので逃げようとしますが、連合軍に包囲されます。 あげく、光厳天皇の膝に矢が命中!ほとんどの北条幕府軍は自害、光厳天皇たちは捕られ、引き戻されます! 100年以上に及ぶ六波羅探題は崩壊し、連合軍勝利の知らせを聞いた後醍醐天皇は船上山からまんをじして京へ上ります。 六波羅探題の崩壊は、足利尊氏の裏切りがなければ実現しなかったかもしれません。 風見鶏的な行動は武士としてどうなのよと賛否が分かれるところですが、結果オーライでしょうか? 美味しいところを全部持っていかれた悲運な武将! 最後は、新田義貞です。 正成や尊氏の戦は、主に日本の西側ですよね?じゃあ東側はどうなのよと。 尊氏が六波羅を攻めていたころ、関東の上野(現在の群馬県)の新田荘を取り仕切っていた御家人が義貞でした。 もとは源氏の源義家の流れで尊氏とは親戚関係にありました。 義貞は、最初幕府側として、あの正成がゲリラ戦など展開した千早城の戦いに参戦していましたが、幕府の勝ち目はないと確信した義貞。 その間、後醍醐天皇が全国の御家人たちに「共に幕府を倒そうではないか」という綸旨(天皇の言葉が書かれている公文書)を出していたことを知ります!早々に、仮病を装い戦線離脱した義貞。 笑 尊氏同様、義貞も幕府から虐げられていたのですね。 地元に戻った義貞でしたが、軍資金調達のため、幕府が土地の税金をがっぽり持っていこうとします!誰だって怒りますよ。 抵抗する新田荘の家臣たち。 ついに幕府の徴収人を殺してしまいます。 こうなったらもう泥沼。 幕府は領地没収を決定します。 これが義貞の挙兵の決定打になるのです! 義貞にも後醍醐天皇から綸旨が届き、ついに倒幕の意思を固め挙兵するのです!上野から利根川を渡って武蔵(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)に入った義貞一行。 尊氏の六波羅探題攻め成功によって、人質に取られていた尊氏の嫡男・千寿王(後の義詮)が家臣たちによって鎌倉から脱出に成功し、義貞一行と合流しました。 さぞ若武者と思いきや、この時千寿王はまだ四歳なのです。 笑 尊氏が29歳、義貞が33歳と父親世代がまだ若い。 つまり、お飾り的要素があったのです。 あの六波羅探題を倒した尊氏の子息がいるとなると、関東周辺の武士たちが続々と義貞軍に合流。 2万以上の大軍となったのです! 勢いづいた義貞軍は、小手指原の合戦、久米川の合戦、分倍河原の合戦と次々に勝利を収めます!挙兵して、わずか10日ほどで、藤沢あたりまで迫ります!深く険しい道が続くので、義貞軍は三手に分かれます。 大舘宗氏を大将にした大舘軍を右から極楽寺坂へ、堀口貞光を大将とした堀口軍を左から巨福呂坂へ、自身は中央から化粧坂へ向かいます。 しかし、宗氏が幕府軍に攻撃にあって無念の戦死。 大切な仲間を失った義貞。 より一層倒幕に燃えます!義貞はとうとう幕府軍を追い詰めます!観念した執権の高時は自害。 北条一族200人もが後を追って命を絶ち、150年に渡る鎌倉幕府は幕を閉じます。 直接鎌倉幕府を倒した義貞。 戦の後始末に明け暮れる中、「帝!幕府をたおしました!」との内容の文書を使者に送らせます。 だけれど、京の都では尊氏フィーバーが起きていたので 笑 鎌倉でもその嫡男である四歳の千寿王少年に人気が集まります。 鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇をトップとする「建武の新政」がスタート。 御家人たちは「ついに新しい時代がきた!」と歓喜します。 御恩と奉公再び!と思いきや、そんなものないのです。 天皇は武士ではありません。 やはり自分の側近である、公家たちのほうがかわいいのです。 公家が「我が子」だとすると、武士は「よその子」なのです。 今で言ったら「正社員」と「派遣」といったところでしょうか。 後醍醐天皇はあくまでも、朝廷及び公家を中心とした政権を考えていて、武士のことはどうでもよく政権を奪取するためのこまとしが考えていなかったのです。 義貞は、従四位という身分しか授けられませんでした。 本来ならば幕府を倒した張本人なら、「征夷大将軍」に任命されるのが妥当でした。 男たちの醜い争い! 後醍醐天皇の独裁に御家人たちは不満を募らせ、騙し騙されの混沌とした時代に。 そんな中、信濃(現在の長野県)に逃れていた亡き執権・高時の遺児・時行が「父の敵!」と鎌倉へ出兵し、またたく間に占拠してしまいます。 尊氏は後醍醐天皇に「時行を討つから、恩賞と征夷大将軍に任命してよ」と願い出るわけですが、天皇は知らんふり。 笑 結局、自称征夷大将軍を名乗って、時行軍と戦い、敵を倒します。 これに冗談じゃないと激怒したのが後醍醐天皇。 尊氏討伐のため朝廷軍を差し向けます!尊氏、なんと躁うつ病をわずらっていたので、一人寺にこもります。 笑 で、戦うのは兄に代わって弟の直義なのです。 この辺は、大河ドラマ「太平記」でも高嶋政伸さんが演じていましたね。 ドラマまで良い弟キャラだなと。 笑 弟の劣勢を知った尊氏はちょっと回復したので、参戦します。 笑 尊氏兄弟軍は、劣勢をはねのけ、逆に京の都を制圧。 京の人々は嘆きます。 「あんたうちらのヒーローじゃなかったの」って。 しかし、朝廷も黙っていません。 「尊氏とんだ食わせ者だな」と怒り心頭!天皇の側近・北畠顕家らに反撃され、尊氏兄弟軍は京を追われます。 こうなったら死に物狂いです。 全国の御家人に「みなのもの今一度武士の世の中を作ろう」ではないかと。 尊氏は光明天皇を擁立して「この方が本当の天皇です」と御家人たちに通達します。 もう止まりません。 笑 対抗した義貞と正成連合軍は、尊氏との戦いに敗れ無念の戦死。 尊氏は京の都を奪還。 光明天皇が即位します。 一方、後醍醐天皇は京を追われて吉野(現在の奈良県)へ落ち延び、「建武の新政」は短命に終わり、朝廷が二つある「南北朝時代」という前代未聞の時代へ突入。 最後には、正式に尊氏が征夷大将軍に任命され、新たな「室町幕府」を開きました。 まとめ 1 鎌倉幕府の滅亡した理由は、元からの元寇と執権・北条氏が政治そっちのけで趣味にのめり込んで、威厳を失ったから。 2 元寇の際に、敵が外国だったため、幕府と御家人の「御恩」と「奉公」の関係が崩壊したから。 3 後醍醐天皇が、天皇中心の政権を考えたから。 4 有力御家人、足利尊氏、新田義貞、楠木正成らが台頭したから。 正直、私は足利尊氏好きになれないですね。 ころころ心変わり過ぎだと。 幕府を倒した新田義貞を征夷大将軍に任命してほしかったと個人的には思いますし、元寇がなくても、どっちみち鎌倉幕府は御家人たちから信頼を失って滅亡したのではないと思いました。 いつの時代も権力争いは醜いですね。

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鎌倉幕府の滅亡と御恩と奉公の崩壊

鎌倉 幕府 滅亡

東勝寺跡(鎌倉市) 今年3月29日、63歳で亡くなられた山本博文氏(東京大史料編纂所教授・日本近世史)。 92年「江戸お留守居役の日記」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞し、テレビ番組等でも活躍した。 山本氏が上梓した『[東大流]流れをつかむ すごい! 日本史講義』は、古代から現代まで、最新研究を取り入れつつ、歴史の重要ポイントを学び直す一冊となっている。 ここでは同書の一部を抜粋編集し、なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのかを紹介する。 北条氏得宗の専制政治 山川出版社の高校教科書『詳説日本史』で鎌倉幕府が倒れた原因としてあげられているのは、次の三点です。 1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。 2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。 3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。 このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせた この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。 最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。 これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。 鎌倉幕府が倒れた背景には、ここであげたような歴史状況があったことは確かです。 しかし、実際に倒幕の核となる存在が現れないと、なかなか倒幕などできることではありません。 そこで登場したのが、後醍醐天皇です。 後醍醐天皇の権力掌握の野望 当時、天皇家では、後嵯峨天皇の子の代に、またしても皇位継承の争いが起こっていました。 詳しい説明は省きますが、後嵯峨の死後、後深草上皇の皇統と、亀山天皇の皇統が並立し、幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。 後深草の皇統は、院御所の持明院殿に住んだので持明院統と呼ばれ、亀山の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだので大覚寺統と呼ばれます。 両統迭立は、スムーズに実現していたわけではなく、両統が幕府に積極的に働きかけ、できるだけ自分に都合のよい結果を得ようとしていました。 亀山の後、同じ大覚寺統の後宇多が天皇になり、その後、伏見、後伏見という持明院統の天皇が続きます。 後伏見の後は、大覚寺統の後二条が天皇となり、次は持明院統の花園が天皇となります。 そして、その次の天皇が大覚寺統の後醍醐です。 しかし、大覚寺統では後二条が直系と見なされており、後醍醐は中継ぎの天皇にすぎません。 そのため、皇太子には後二条の皇子である邦良親王が立てられ、後醍醐は、退位した後は後宇多から譲られた所領をすべて邦良に譲り、後醍醐の子どもたちも邦良に仕えることにされていました。 大覚寺統で皇統が続くわけですから、当然、持明院統は抵抗しました。 しかし、邦良の後は持明院統の後伏見の皇子、量仁親王が立つということで、妥協したのです。 ところが、後宇多法皇が没すると、風向きが変わってきます。 祖父後宇多の後ろ盾を失った邦良側は、後醍醐に早く譲位してもらって皇位を確保したいと考え、持明院統も、邦良が即位すれば量仁が皇太子になるので後醍醐の譲位を望みます。 後醍醐は、大覚寺統からも持明院統からも攻撃される立場になりました。 もし後醍醐が直系の天皇であれば、譲位して院政を敷くこともできます。 しかし、後醍醐にその選択肢はなく、自らの皇統を続けていこうとすれば、あくまで皇位にとどまるしかありません。 その最大の障壁が、両統迭立を支持する幕府だったのです。 そこで、後醍醐は、腹心の公家、日野資朝・俊基らに各地の武士を勧誘させます。 しかし、これは京都の幕府の出先機関である六波羅探題に察知され、資朝らはとらえられます。 これが正中の変です。 正中3年(1326)、邦良が没すると、後醍醐は皇子の世良親王を皇太子にしようとしますが、持明院統の巻き返しによって量仁が皇太子になります。 後醍醐は、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)を天台座主(天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職)とし、僧兵勢力を頼ろうとします。 こうした動きに危機感を持った大覚寺統側の腹心、吉田定房は、後醍醐の動きを幕府に密告します。 これは理解できるところです。 後醍醐が無謀な挙兵をすれば、大覚寺統そのものが倒れてしまうことにもなりかねないからです。 定房は、それに恐怖感を持ったのでしょう。 元徳3年(1331)4月、日野俊基らは再び六波羅探題に捕らえられ、鎌倉に護送されます。 後醍醐は、笠置山(京都府笠置町)で挙兵しますが、幕府軍に包囲されて捕らえられます。 後醍醐は皇位を廃され、隠岐に流されることになりました。 後伏見上皇の院政が始まり、量仁親王が皇位について光厳天皇になります。 こうして見ると、後醍醐は、自らの皇統を伝えようとするあまりに、それまでの朝廷や幕府の合意をことごとく打ち破ろうとしています。 そしてそれが受け入れられないと見るや、挙兵して実力でそれを実現しようとします。 しかし、当時、朝廷にはなんら軍事力はなく、軍事はすべて幕府に委ねていました。 そうした状況で挙兵するというのは、どう考えても常識外れでした。

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