治安 維持 法 と 普通 選挙 法 を 同時に 成立 させ た 内閣 総理 大臣 は 誰。 政党内閣の加藤高明が遺した普通選挙法と治安維持法という政治的遺産

加藤高明とは何をした人?普通選挙法と治安維持法を制定した連立内閣。

治安 維持 法 と 普通 選挙 法 を 同時に 成立 させ た 内閣 総理 大臣 は 誰

普通選挙法とは? 普通選挙法とは、 1925年 大正14年 に満25歳以上の全ての成年男子に選挙権を与えることを規定した法律のことです。 国政選挙が始まってからは、選挙権は一定以上の納税額のある者のみに与えられていましたが、普通選挙は社会運動の政治的要求として掲げられるようになります。 その後、普通選挙を求める普選運動の高まる中、 護憲三派による 第二次護憲運動が始まります。 普通選挙の実現を公約とした護憲三派が 衆議院選挙に勝利すると、総裁の 加藤高明のもとで 普通選挙法案(正式には衆議院議員選挙法改正案)が成立しました。 また、岩倉使節団として欧米の視察をしてきた木戸孝允と大久保利通は、1873年に立憲政治体制の採用を求める意見書を作成しました。 一方で征韓論を巡って物別れとなり辞職していた板垣退助らは、1874年に愛国公党を設立するとともに 民撰議院設立の建白書を提出しました。 憲法と同時に衆議院議員総選挙法が定められ、選挙権は 15円以上の納税をしている男子のうち 25歳以上のものとなりました。 翌 1890年の第 1回衆議院議員選挙では、有権者は 45万人ほど、全人口 4000万人の 1. (山県有朋 出典:Wikipedia) 直接国税の制限は 10円に引き下げられた結果、有権者はおよそ 98万人、全人口の 2. また、投票方法は 無記名秘密投票制となり、被選挙権ついては納税制限が撤廃されました。 1919年になると、再度衆議院議員選挙法が改正され、直接国税による制限は 3円にまで引き下げられました。 同時に 大選挙区制が 小選挙区制に変更されます。 この改正により、有権者は 306万人、全人口の 5. 段階的に改善されていましたが、さらに普通選挙を求める運動が活発化していきます。 衆議院において普選案が多数の支持を得たこともありましたが、 貴族院の反対により成立することはありませんでした。 1920年になると野党の 憲政会や 立憲国民党は普通選挙の実現を掲げるものの、同年の総選挙で与党の 立憲政友会に大敗し普選案は否決されることになります。 その後、 第二次山本内閣が普通選挙実現のために選挙法の改正を目指しましたが、 1923年の 虎ノ門事件の責任を取り退陣を余儀なくされます。 護憲三派は世論の支持を得ると、貴族院の改革や政党内閣の復活を掲げて第二次護憲運動をすすめて清浦内閣打倒を目指します。 立憲政友会の清浦派は脱党して政友本党を結成すると、立憲政友会に残った人数を上回ることになります。 これにより一時は清浦派は落ち着きますが、同年 5月の総選挙では護憲三派が圧倒的な勝利を収めました。 同年 6月に清浦内閣は総辞職すると、首相は第一党となった憲政会総裁の加藤高明となり、政党内閣が復活することになりました。 与党を護憲三派として組閣し、立憲政友会も普選運動の賛成に回ります。 翌 1925年、加藤高明内閣において普通選挙法案が両院を通過し成立するにいたります。 (加藤高明内閣 出典:Wikipedia) 普通選挙法の条件 この普通選挙法の選挙権を有するための条件は、 満25歳以上であることと男性であることのみになりました。 このとき、初めて 納税額、財産、身分などの制限が完全に撤廃されます。 これにより、有権者は 1240万人、全人口の 20. 被選挙権は満 30歳以上の男性となりますが、変わらず女性に選挙権はありませんでした。 日本では性別を除く全ての条件が撤廃されることになりましたが、欧米ではフランス、アメリカ、ドイツでは 19世紀中に、イギリスでは 1918年にすでに男性の普通選挙が実現していました。 普通選挙法改正 (幣原喜重郎 出典:Wikipedia) 第二次世界大戦後、 1945年 10月 9日に 幣原喜重郎 しではらきじゅうろう が首相となると 五大改革指令を実行することになります。 この指令は、10月11日に マッカーサーが幣原に口頭で述べた示唆であり、次の通りでした。 憲法の自由主義化のための大日本帝国憲法改正と婦人参政権の付与• 労働組合の結成奨励• 教育制度の自由主義的改革• 圧政的諸制度( 治安維持法や 特高警察など)の廃止• 経済機構の民主化 幣原はこの指令に基づいて次々に対処し、同年 12月には衆議院議員選挙法を改正し女性の参政権を認めることになりました。 改正後は、満 20歳以上の全ての男女に選挙権が認められ、有権者は 3688万人、全人口の 50. また、被選挙権は満 25歳以上の男女と年齢も引き下げられました。 男女とにも普通選挙が実現したのは、 1893年のニュージーランドを皮切りに、アメリカ、ドイツ、イギリス、ソ連では戦前に、日本とフランス、スイスでは 1945年、インドや中国ではそれ以降のことでした。 のちの 1950年に、衆議院議員選挙法と参議院議員選挙法、 地方自治法が統合され、新法として 公職選挙法が制定されました。 なお、公職とは「衆議院議員」「参議院議員」「地方議会の議員」「知事および市町村長」を指します。 2015年には、さらに年齢が引き下げられ、満 18歳以上の男女に選挙権が認められることになります。 まとめ.

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原敬内閣は普通選挙に反対!選挙法改正では何を変えた?

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普通選挙法とは? 普通選挙法とは、 1925年 大正14年 に満25歳以上の全ての成年男子に選挙権を与えることを規定した法律のことです。 国政選挙が始まってからは、選挙権は一定以上の納税額のある者のみに与えられていましたが、普通選挙は社会運動の政治的要求として掲げられるようになります。 その後、普通選挙を求める普選運動の高まる中、 護憲三派による 第二次護憲運動が始まります。 普通選挙の実現を公約とした護憲三派が 衆議院選挙に勝利すると、総裁の 加藤高明のもとで 普通選挙法案(正式には衆議院議員選挙法改正案)が成立しました。 また、岩倉使節団として欧米の視察をしてきた木戸孝允と大久保利通は、1873年に立憲政治体制の採用を求める意見書を作成しました。 一方で征韓論を巡って物別れとなり辞職していた板垣退助らは、1874年に愛国公党を設立するとともに 民撰議院設立の建白書を提出しました。 憲法と同時に衆議院議員総選挙法が定められ、選挙権は 15円以上の納税をしている男子のうち 25歳以上のものとなりました。 翌 1890年の第 1回衆議院議員選挙では、有権者は 45万人ほど、全人口 4000万人の 1. (山県有朋 出典:Wikipedia) 直接国税の制限は 10円に引き下げられた結果、有権者はおよそ 98万人、全人口の 2. また、投票方法は 無記名秘密投票制となり、被選挙権ついては納税制限が撤廃されました。 1919年になると、再度衆議院議員選挙法が改正され、直接国税による制限は 3円にまで引き下げられました。 同時に 大選挙区制が 小選挙区制に変更されます。 この改正により、有権者は 306万人、全人口の 5. 段階的に改善されていましたが、さらに普通選挙を求める運動が活発化していきます。 衆議院において普選案が多数の支持を得たこともありましたが、 貴族院の反対により成立することはありませんでした。 1920年になると野党の 憲政会や 立憲国民党は普通選挙の実現を掲げるものの、同年の総選挙で与党の 立憲政友会に大敗し普選案は否決されることになります。 その後、 第二次山本内閣が普通選挙実現のために選挙法の改正を目指しましたが、 1923年の 虎ノ門事件の責任を取り退陣を余儀なくされます。 護憲三派は世論の支持を得ると、貴族院の改革や政党内閣の復活を掲げて第二次護憲運動をすすめて清浦内閣打倒を目指します。 立憲政友会の清浦派は脱党して政友本党を結成すると、立憲政友会に残った人数を上回ることになります。 これにより一時は清浦派は落ち着きますが、同年 5月の総選挙では護憲三派が圧倒的な勝利を収めました。 同年 6月に清浦内閣は総辞職すると、首相は第一党となった憲政会総裁の加藤高明となり、政党内閣が復活することになりました。 与党を護憲三派として組閣し、立憲政友会も普選運動の賛成に回ります。 翌 1925年、加藤高明内閣において普通選挙法案が両院を通過し成立するにいたります。 (加藤高明内閣 出典:Wikipedia) 普通選挙法の条件 この普通選挙法の選挙権を有するための条件は、 満25歳以上であることと男性であることのみになりました。 このとき、初めて 納税額、財産、身分などの制限が完全に撤廃されます。 これにより、有権者は 1240万人、全人口の 20. 被選挙権は満 30歳以上の男性となりますが、変わらず女性に選挙権はありませんでした。 日本では性別を除く全ての条件が撤廃されることになりましたが、欧米ではフランス、アメリカ、ドイツでは 19世紀中に、イギリスでは 1918年にすでに男性の普通選挙が実現していました。 普通選挙法改正 (幣原喜重郎 出典:Wikipedia) 第二次世界大戦後、 1945年 10月 9日に 幣原喜重郎 しではらきじゅうろう が首相となると 五大改革指令を実行することになります。 この指令は、10月11日に マッカーサーが幣原に口頭で述べた示唆であり、次の通りでした。 憲法の自由主義化のための大日本帝国憲法改正と婦人参政権の付与• 労働組合の結成奨励• 教育制度の自由主義的改革• 圧政的諸制度( 治安維持法や 特高警察など)の廃止• 経済機構の民主化 幣原はこの指令に基づいて次々に対処し、同年 12月には衆議院議員選挙法を改正し女性の参政権を認めることになりました。 改正後は、満 20歳以上の全ての男女に選挙権が認められ、有権者は 3688万人、全人口の 50. また、被選挙権は満 25歳以上の男女と年齢も引き下げられました。 男女とにも普通選挙が実現したのは、 1893年のニュージーランドを皮切りに、アメリカ、ドイツ、イギリス、ソ連では戦前に、日本とフランス、スイスでは 1945年、インドや中国ではそれ以降のことでした。 のちの 1950年に、衆議院議員選挙法と参議院議員選挙法、 地方自治法が統合され、新法として 公職選挙法が制定されました。 なお、公職とは「衆議院議員」「参議院議員」「地方議会の議員」「知事および市町村長」を指します。 2015年には、さらに年齢が引き下げられ、満 18歳以上の男女に選挙権が認められることになります。 まとめ.

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治安維持法

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この記事には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 がまったく示されていないか不十分です。 内容に関するが必要です。 ( 2016年3月)• にに基づいており、精度に欠けるかもしれません。 ( 2016年3月) 治安維持法(ちあんいじほう)は、()やを否定する運動を取り締まることを目的として制定されたの。 (14年)に 治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)として制定された。 その後,1928年(昭和3年)6月29日、緊急勅令(昭和3年勅令129号)の形式で修正が加えられた。 さらに1941年、(16年3月10日法律第54号)として全面改正され、(昭和20年)に廃止された。 治安維持法 通称・略称 治維法 昭和16年3月10日法律第54号 種類 効力 廃止 主な内容 変革・私有財産制否定を目的とする結社・運動の取締 関連法令 、(旧)、 特にの過激化を懸念したものだったが、やがてや、活動、、などへも適用対象が拡大されていった。 「」および「」も参照 (大正9年)より、は治安警察法に代わる立法の制定に着手した。 (大正6年)のによる思想の拡大を脅威とみて企図されたといわれる。 また、(大正10年)4月、がから受け取った運動資金6,500円で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。 資金受領は合法であり、近藤はされたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。 また、など、従来の共産主義・とは無関係のが起き、の大衆化が進んでいた。 特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。 (大正10年)8月、はらが中心となり、「治安維持ニ関スル件」の法案を完成し、での成立を企図した。 しかし内容に緊急性が欠けていると側の反論があり、(大正11年)2月、 過激社会運動取締法案としてに提出された。 「共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」するや、その・勧誘を禁止しようというものだった。 また、結社のに参加することも罪とされ、最高刑は10年とされた。 これらの内容は、などの司法の意向が強く反映されていた。 しかし、具体的な犯罪行為がなくては処罰できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委員・の答弁)といった政府側の趣旨説明は、そのものの否定であり、かえって反発を招いた。 また、無政府主義や共産主義者の法的定義について、司法省は答弁することができなかった。 さらに、「宣伝」の該当する範囲が広いため、濫用が懸念された。 その結果、では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト連絡」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可決したが、で廃案になった。 また、(大正12年)に後の混乱を受けて公布された・ (大正12年第403号)も前身の一つである。 これは、治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止したことで、政府はその連続性を示している。 法律制定 (大正14年)1月、が締結されとのが樹立されたが、第1次(護憲三派内閣)でのが2月4日に急逝した。 その後任にが就任し の懸念などをもって治安維持法の制定を推進し、4月22日に同法が公布、同年に施行された。 とほぼ同時に制定されたことから、「」の関係にもなぞらえられ、成人男性の実施による政治運動の活発化を抑制する意図など、治安維持を理由として制定されたものと見られている。 治安維持法は即時に効力を持ったが、普通選挙実施は次の総選挙の となった。 法案は過激社会運動取締法案の実質的な修正案であったが、過激社会運動取締法案が廃案となったのに対して治安維持法は可決した。 は、治安立法自体への反対は議会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その結果修正案として出された治安維持法への批判がしにくくなったからではないかとしている。 ウィキソースに の緊急勅令の法文があります。 (昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(3年勅令第129号)により、またを目前にしたにはこれまでの全7条のものを全65条とする全部改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。 1925年(大正14年)法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハニ処ス」をおもな内容とした。 過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除された。 1928年(昭和3年)改正のおもな特徴としては、 「国体変革」への厳罰化 1925年(大正14年)法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑としたこと。 「為ニスル行為」の禁止 「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行のためにする行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとしたこと。 改正手続面 改正案が議会において審議未了となったものを、緊急勅令のかたちで強行改正したこと。 この背景には、政権母体の立憲政友会の中で意見が割れていたことがある。 このせいで審議未了となったために、田中首相は緊急勅令を用いて改正した。 があげられる。 1941年(昭和16年)法は同年に施行されたが、 「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。 官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙可能であった。 また、「宣伝」への罰則も復活した。 「国体ノ変革」が要件であり、当たり前ながら誰でも検挙できるわけではなかったことに留意する必要がある。 のでとなった事件は、ほとんどが関係者に関わるものである。 刑事手続面 従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(=官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、たとえば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、としたこと、は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」としたことなど。 予防拘禁制度 刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。 をおもな特徴とする。 検挙対象の拡大 1935年から1936年にかけて、思想検事に関する予算減・人員減があった。 1937年6月の思想実務者会同で、検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じていることに危機感を表明した。 そのため、新たな取締対象の開拓が目指されていった。 治安維持法は適用対象を拡大し、宗教団体・学術研究会(唯物論研究会)・芸術団体なども摘発されていった。 廃止 (昭和20年)の後も同法の運用は継続され、むしろ迫りくる「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。 同年に同法違反で服役していたのがの悪化により獄死している。 にはのは、記者のに答え、「思想取締のは現在なほ活動を続けてをり、を行ふ共産主義者は容赦なくする」方針を明らかにした。 1945年8月下旬から9月上旬において、司法省では検事正を中心に、今後ののあり方について話し合いを行い、が残る以上は治安維持法第一条を残すべきとの意見が出ていた。 ほか、司法大臣がの釈放を否定している。 1945年、による人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と内務大臣山崎巌のを要求された。 東久邇宮内閣は両者を拒絶し。 後継のが、昭和20年勅令第575号『』()を制定し、治安維持法は廃止された。 また、も廃止を命じられた。 GHQから指示された人権指令には、10いくつかの法律が「廃止すべき法令」として列挙されていたが、実際には戦前の治安法規は85もあった。 そのため日本政府は、すでに列挙されている10いくつかの法律は廃止せざるをえないが、そこに列挙されていない法律は意図的に見逃すことによって人権指令を無内容化し、最低限の実施で切り抜けようとした。 そのため、たまたま見つかった治安警察法は廃止されたが、それ以外の法律は廃止リストになかったため、その後も残されることになった。 人権指令の実施にあたっては、GHQと内務省、司法省との間で折衝が行われている。 治安維持法の廃止直後に「大衆運動ノ取締ニ関スル件」が決定され、GHQとの折衝の結果、治安維持法廃止の4日後に「大衆運動ノ取締ニ関スル件」が新たな治安法規として登場している。 この件について、GHQと日本政府はあうんの呼吸を持っていたとされる。 治安維持法廃止から10日後の1945年10月26日に、内務省と司法省は共同の新聞発表を行い、やなどの「多衆運動に伴う各種犯罪」に対しては、「もっぱら既存法規をもって取締処分せんとするにすぎない」と発表し、社会不安が濃厚な社会状況に対しては、旧来の法令によって厳重な取り締まりを行うと宣言している。 旧来の法令とは、人権指令で廃止を免れたや、、行政警察規則、、などを指しており、の治安法規の本体である治安維持法や治安警察法が廃止されたことを受けて、その周辺にあった治安法規が前面に出てくることになった。 を可能にしていた行政執行法の適用は、1945年には27万人だったが、1946年には64万人に倍増している。 戦前には法律として冬眠状態にあった爆発物取締罰則の活用が期待されるようになり、爆発物取締罰則の第一条が、GHQや日本政府に対する批判的な社会運動の取り締まりや、新たな「国体護持」の役割を、治安維持法などに代わる治安法規として担うことになった。 その歴史的役割 当初、治安維持法制定の背景には、ロシア革命後に国際的に高まりつつあった共産主義活動を牽制する政府の意図があった。 また似たような法律は当時の、、、などに公然と存在していた。 後年、治安維持法は多くの活動家、運動家に適用され、などは取り調べ中のによって死亡した。 ちなみに が適用第一号とされている [ ](内地においては、が最初の適用例である)。 前半に左翼運動が潰滅したため標的を失ったかにみえたが、以降は(昭和10年)のへの適用()など(政府の用語では「類似宗教」。 似非宗教という意味)の取り締まりにも用いられた。 天皇を頂点とするの存立を脅かすことが、国体の変革に当たるという解釈の下に取締りが進められた訳である。 大本以外にも、など弾圧を受けた団体は多く、中でもは創立者で精神的支柱の一人でもあるを獄死させられている。 「」および「」も参照 の弁護人のリーダー格となったは、での弁護活動が「の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された(当時はではなく、のが剥奪の権限を持っていた)。 さらに、(昭和8年)、布施やなどの三・一五事件、の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された()。 その結果、治安維持法への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、の法改正では、司法大臣があらかじめ指定した弁護士でないと弁護人に選任できないとされた(第29条)。 日本では純粋な治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。 でされたとは死刑となったが、罪状は違反と治安維持法違反のとされ、治安維持法より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。 そこには、死刑よりも『』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。 ゾルゲ事件では、他にも多くの者が逮捕されたにもかかわらず死刑判決を受けたのはゾルゲと尾崎だけだった。 戦後にゾルゲ事件を調査したは、それまで持っていた日本に対する認識からするとゾルゲ事件の多くのに対する量刑があまりにも軽かったことに驚いている。 朝鮮においてはなどで治安維持法違反による刑死者を出したがこれも殺人や現住建造物砲火等との併合罪によるものであった。 その後、治安維持法を運用した特別高等警察をはじめとして、警察関係者は多くがされたが、司法省関係者の追放は25名に留まった。 やなど、として治安維持法を駆使した人物も、ほどなく司法界に復帰した。 池田は追放解除後、にまでなっている。 (昭和27年)公布のは「団体のためにする行為」禁止規定などが治安維持法に酷似していると反対派に指摘され、治安維持法の復活という批判を受けた。 その後も、治安立法への批判に対して治安維持法の復活という論法は頻繁に使われている(、など)。 後は治安維持法については否定的な意見が主流とされる。 一方、派の一部には治安維持法擁護論もある [ ]。 (昭和51年)、のがでのを取り上げた際、宮本の罪状の一つとして治安維持法違反をそのまま取り上げた。 そこで、宮本の疑惑の真偽とは別に、春日は治安維持法を肯定しているのかと批判を受けた。 は文藝春秋社『』4月号の「とはなにか」で「治安維持法などの治安立法は日本がソ連のから自国をする手段」であったと一定の評価を下し、日本共産党などから強い反発を受けた。 も『』『』などで、同様の主張を行っている(『諸君! 』2007年9月号「国家情報論 21」、『正論』2006年9月号など)。 は、戦後に廃止されてから1955年7月まで式を行った や、それ以後も1955年以前の日本共産党の路線を分裂しながらも続けた・ による・ によって、民間人やを多数死傷させるような過激な革命を目指すテロなどが頻繁だったまでは必要性があったとしている。 アメリカでは1954年8月24日にというの非合法化と共産党の支援・共産主義者などを罰する法律が制定された。 現行でも有効の法律であるが、1991年のによる終結後以降にもアメリカ共産党自体は規模が小さいが存続自体はしている。 には、治安維持法犠牲者への請求を訴えるが結成されている。 国立国会図書館. 2018年2月16日閲覧。 司法大臣は、4日間だけが臨時兼任していた。 小川は翌日に思想団体を設立し会長となっており、またを創刊して国粋を提唱していた。 地方議会を含めれば、1926年9月3日に浜松市議会議員選挙で日本初• 奥平康弘『治安維持法小史』 〈岩波現代文庫〉、2006年6月。 55-56• これには、当時から憲法違反との指摘が根強かった。 『安保法制の何が問題か』参照• 荻野富士夫 『思想検事』 〈岩波新書〉、2000年9月。 『鬼検事』 法学書院 p. 89~90• 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p. 211-213• 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p. 213• 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p. 213-214• 荻野富士夫 『横浜事件と治安維持法』 樹花舎 p. 214-215• 永井哲二 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:23• 『赤色スパイ団の全貌 : ゾルゲ事件』福田太郎訳、東西南北社刊、1953年• 、や、、、などとの共闘していたまで• 、、、、、、など• 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、など• 「魂の昭和史 すべての日本人に感じてほしい」 福田和也(小学館文庫)• 閔炳老「 」 『』第33巻第1号、早稲田大学比較法研究所、1999年7月1日、 105-163頁、 2015年3月22日閲覧。

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