足利義栄。 足利義昭

足利義昭

足利義栄

室町時代、室町幕府、足利将軍の一覧です。 足利将軍一覧• 初代 足利尊氏(たかうじ)• 2代 足利義詮(よしあきら)• 3代 足利義満(よしみつ)• 4代 足利義持(よしもち)• 5代 足利義量(よしかず)• 6代 足利義教(よしのり)• 7代 足利義勝(よしかつ)• 8代 足利義政(よしまさ)• 9代 足利義尚(よしひさ)• 10代 足利義材(よしき)• 11代 足利義澄(よしずみ)• - 足利義稙(よしたね)(10代・義材が改名し、2度目の就任)• 12代 足利義晴(よしはる)• 13代 足利義輝(よしてる)• 14代 足利義栄(よしひで)• 15代 足利義昭(よしあき)• 足利尊氏 代 1 氏名 足利 尊氏 あしかが・たかうじ 在位 1338年 - 1358年 期間 20年 享年 54 肖像 メモ• 室町幕府初代将軍• 六波羅探題を滅ぼす• 建武新政• 征夷大将軍• 楠木正成• 高師直• 光明天皇• 太平記• 菟玖波集• 夢窓疎石• 天龍寺• 新田義貞• 湊川の戦 2. 足利義詮 代 2 氏名 足利 義詮 あしかが・よしあきら 在位 1359年 - 1367年 期間 8年 享年 38 肖像 メモ• 尊氏の子• 幼名 千寿王• 新田義貞• 斯波義将• 細川頼之• 坊門殿• 花の御所 3. 足利義満 代 3 氏名 足利 義満 あしかが・よしみつ 在位 1369年 - 1395年 期間 26年 享年 49 肖像 メモ• 2代将軍・義詮の子• 幼名 春王• 南北朝合一• 日明貿易(にちみんぼうえき)• 勘合貿易• 能楽の保護• 金閣(鹿苑寺)• 北山文化• 室町殿• 一休さん 4. 足利義持 代 4 氏名 足利 義持 あしかが・よしもち 在位 1394年 - 1423年 期間 28年 享年 43 肖像 メモ• 3代将軍・義満の子• 上杉禅秀の乱• 宿老(しゅくろう)• 日明貿易(にちみんぼうえき)を中止• 斯波義将• 細川満元• 畠山満家• 赤松満祐 5. 足利義量 代 5 氏名 足利 義量 あしかが・よしかず 在位 1423年 - 1425年 期間 3年 享年 18 肖像 メモ• 義持の子• 17歳で征夷大将軍となる• 在職3年で病死 6. 足利義教 代 6 氏名 足利 義教 あしかが・よしのり 在位 1428年 - 1441年 期間 3年 享年 48 肖像 メモ• 初め青蓮院に入室、大僧上となる• 石清水八幡宮で籤引きで決まる(籤引き将軍)• 万人恐怖• 悪御所• 永享の乱• 赤松満祐に殺される• 嘉吉の乱 7. 足利義勝 代 7 氏名 足利 義勝 あしかが・よしかつ 在位 1442年 - 1443年 期間 8ヶ月 享年 9 肖像 メモ• 6代将軍・義教の長男• 幼名 千也茶丸• 細川持之• 山名持豊• 徳政一揆• 畠山持国• 後花園天皇• 赤痢(のため病死?) 8. 足利義政 代 8 氏名 足利 義政 あしかが・よしまさ 在位 1449年 - 1473年 期間 24年 享年 55 肖像 メモ• 6代将軍・義教の子• 母は日野重子• 幼名 三寅・三春• 応仁の乱• 陣を構えた場所から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ• 日野富子• 細川勝元• 山名宗全• 東山文化• 銀閣(慈照寺)• 香道 9. 足利義尚 代 9 氏名 足利 義尚 あしかが・よしひさ 在位 1473年 - 1489年 期間 16年 享年 25 肖像 メモ• 8代将軍・義政の長男• 母は日野富子• 叔父の足利義視(よしみ)と将軍職をめぐる対立• 六角征伐(長享・延徳の乱)• 近江国の陣中にて病死 10. 足利義稙 代 10 氏名 足利 義稙 あしかが・よしたね 在位 1490年 - 1495年 1508 - 1522 期間 5年, 14年 享年 56 肖像 メモ• 父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟• 初名は義材(よしき)• 将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)と改名• 将軍職復帰後の永正10年(1513年)に義稙(よしたね)と改名• 約13年半の逃亡生活• 将軍在職は2つの時期に分かれている• 細川政元と対立• 明応の政変にて幽閉• 大内義興• 細川高国(政元の養子)と対立• 逃亡先の阿波国で死去 11. 足利義澄 代 11 氏名 足利 義澄 あしかが・よしずみ 在位 1495年 - 1508年 期間 13年 享年 31 肖像 メモ• 父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知• 初名は清晃(せいこう)• 還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、義澄と改名• 細川政元に擁立されて将軍となる• 前将軍・義稙と対立。 1508年、義稙により将軍職を剥奪される• 逃亡先の近江で病死 12. 足利義晴 代 12 氏名 足利 義晴 あしかが・よしはる 在位 1521年 - 1546年 期間 25年 享年 39 肖像 メモ• 11代将軍・義澄の長男• 管領・細川高国に擁立されて将軍となる• 高国が細川晴元に敗れると近江に亡命• 晴元と和睦して将軍の権限を回復• 三好長慶(みよし・ながよし)• 近衛家• 近江穴太 あのう にて病死 13. 足利義輝 代 13 氏名 足利 義輝 あしかが・よしてる 在位 1546年 - 1565年 期間 19年 享年 29 肖像 メモ• 12代将軍・義晴の長男• 幼名 菊幢丸• 近江・六角氏の擁立で将軍就任• 三好長慶と対立• 1553年から5年間近江朽木谷(くつきだに)へ亡命• 松永久秀に攻められて敗死• 永禄の変• 塚原卜伝の直弟子 14. 足利義栄 代 14 氏名 足利 義栄 あしかが・よしひで 在位 1568年2月-9月 期間 7ヶ月 享年 28 肖像 メモ• 父は11代将軍・義澄の長男である足利義冬• 三好三人衆により擁立され将軍就任• 足利義昭(義栄の弟)• 織田信長に擁立された義昭が入京• 摂津に逃れ、病没• 室町将軍として唯一、本拠地である京都に足を踏み入れずに生涯を終える 15. 足利義昭 代 15 氏名 足利 義昭 あしかが・よしあき 在位 1568年 - 1588年 期間 20年 享年 59 肖像 メモ• 父は12代将軍・足利義晴• 13代将軍・足利義輝は同母兄• 幼名 千歳丸• 織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任、のちに対立• 武田信玄• 浅井長政• 朝倉義景• 信長包囲網• 織田信長に京都から追放され、室町幕府は滅亡• 本能寺の変の後、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められる• 慶長2年(1597年)8月、大坂で死去。 死因は腫物であったとされる 関連するポスト.

次の

【麒麟がくる】足利義栄 三好一族が擁立したが腫れ物が原因で京に一度も来なかった将軍

足利義栄

201X、遂に(実休)さんが星4で登場した上に、なんとさんまで登場しはるというサプライズがあってかんたんしました。 早とちり早とちり。 やーー遂に来ましたね実休さん。 これで三好四兄弟で星4未済は安宅冬康さんのみとなりました。 きっと凄い射撃手とかになっていつか登場してくれるはず。 さっそくガチャを引いてみました。 ……なかなか当たんねーなと思ったら星4倍率2倍じゃなかったんですね。 しまった。 皆さまお気を付けください。 とはいえ、運よく紹介状30枚ほどで目当ての2人が来てくれました。 さんの人相の悪さが凄いですね。 これでは衆の支持は得られそうにない……。 と思いきや。 お薬をお持ちになっていました。 どうやら体調悪いのに摂津に引っ張ってこられてしんどい模様です。 貴人に無理させちゃいけませんね。 一方の実休さんは。 やだ、やり手の若手経営者みたいで格好いい。 ちょんまげベストなのにに見えるのはさすがの貫禄ですね。 以下、少しだけお二人のことを書いてみることにいたします。 特性の三日月葉茶壷もまとまりのよい内容なので、バフ&兵器人材として活躍が見込めそうですね。 スキルの内容を踏まえれば、起死回生前提の強敵との戦いに向いてる感じでしょうか。 あるいは味方の与ダメージアップ系の特性を重ねたりしてみようかなあ。 育て方に迷ってしまいます。 単なるバッファー薬師なら三好康長さんの方がコストが低くて使いやすいし。 なんらかの役割に寄せて個性を出したいところだ……。 レギュラーで使いたいけど、我が陣営のバッファーはさんと岡部元信さんが鉄板過ぎて押しのけられそうにないんですよね。 準三好家としてさんをフル開眼兵器特化させるか迷っていまだ実行していないのと同じ悩みなんだよな……うーむ。 スキル名の「鑓場の怜謀」は、久米義広さんを討った鑓場の戦い由来なのでしょう。 実休さんは戦国時代でも数少ない 「主君を殺して」をやっちゃった方です。 さんやさんなんかもそういう系ですね。 実は大半のは「主君追放」で、「主君殺害」はけっこうレアなんですよ。 しかも実休さん、 主君の仇討ちにやってきた方たちを返り討ちにしてますからね。 それが鑓場の戦いなんですけど。 三好家界隈だとさんがダークヒーローのように扱われることがありますけど、 史実で一番ダークヒーローなのは間違いなくさんだと思います。 しかも、たいそう魅力的なんだよな。 なんせ戦が強い。 長慶さんより強いかもしれない。 201Xの実休さんは だなんてカマトトぶってますが、史実の実休さんは三好家の決戦兵器ですからね。 実休さんが海を越えてに上陸してくる=相手は死ぬですからね。 長慶さんがだとしたら実休さんはですからね。 遊佐長教さんや安見宗房さんやさんたら実休さんは阿波の黒渦そのものですからね。 こいつは素敵だ、全部台無しだってなものなのです。 しかも 派手に格好いい。 禅とかとかストイックにやっている 兄上とは違うぞ。 阿波めの振興やら瀬戸内交易やら河内利権分捕りやらで荒稼ぎ。 稼いだ銭は名物茶器やら名刀やらの収集につぎ込んでさんに一目置かれる。 三好宗三さん亡き後の代表的数寄者武人として堺に君臨していた方なのです。 ちなみにさんはさんのを参考にしていたんじゃねとも言われていますが(諸説あり)、風流面ではさんを参考にしていたんじゃねという節もあり。 三日月葉茶壷、 実休、 の蘇鉄と、実休さん由来の名物をやたら愛玩されていたことにも定評があるんですよ。 そういう訳で。 長慶さんと久秀さん主従も光と影みたいなスト味があって魅力的なんですが、 実休さんは一人で「光と影」を抱いてはる感じなのが格好いいのです。 yes、私の主観ですのでご留意ください。 「鑓場」が取り上げられたのが個人的に嬉しいんですよね。 大恩あるさんをなぜ殺めたのか、単なる権力奪取なのか、持隆さんが義冬さんを担ごうとしたからなのか、持隆さんが実休さんを危険視したので先手を打ったのか、あるいは1553年という時期的に持隆さんが義輝さん&晴元さんと組んだのか等々……。 史料のなさもあって、いずれも推測の域を出ない、大きな謎なのです。 もし持隆さんが蘇るような異聞が実装されたら……私は涙なしにはプレイできないぞ。 さん 忘れ去られた足利14代将軍。 下手したらの宮将軍よりもマイナーな将軍。 それがさんであります。 おおきくはと篠原長房さんに担ぎ上げられたけど京に入ることもないまま、さん・さん上洛時にタイミングよく病死した気の毒な人として知られていますね。 ガチャ説明文の 「背後の味方を超絶強化!」とは篠原長房さんのことなのでしょう。 ちなみに篠原長房さんにスキル発動すると篠原長房さんが星4仕様に変化しません。 本当に超絶強化でした。 でも背後の味方。 使いづらい。 劣化さんなのか、そうなのか。 この義栄さん、史実ではあまりにも活動期間が短すぎて評価は困難なのですが、最近は義栄幕府体制を築くべく独自の人事や利害調整を試みていたのでは等とフォローの声も出てきてはります。 また、「二つに分かれた足利家」という視点は、以後の史の流れを読み解く上で以前よりも注目されている気がします。 事績どうこうよりも気の毒っぷりの方がどうしても目立つ方ですけどね……。 201Xでも 等と哀しみを背負って出陣式に出ておられるのが涙を誘います。 お父君の義冬(義維)さんはあんなに元気だったのにね。 所属が足利家ということで、二つに分かれていないことが救いかもしれません。 以上、実休さんと義栄さんが星4実装されてわーいという記事でした。 だんだん三好家界隈の主要メンバーが揃ってきましたね。 異聞来ちゃう……? さいきんの201Xは「渡し」一家の中間管理職っぷりが敵ながらストレスたまってそうで心配になりませんか。 ここはいっちょう木沢長政さんが颯爽と登場して、虐げられている幽魔中下位層を扇動して山津見さんたちに叛旗を翻させるような現役武将置いてけぼりのワンダーなストーリーを期待したいところであります。 ていうのは冗談ですが、引き続き201Xが楽しくバージョンアップしていきますように。 trillion-3934p.

次の

足利義栄(あしかがよしひで)とは

足利義栄

足利義昭の生い立ち 第12代将軍・足利義晴の次男として誕生、その後、出家し「覚慶」と名乗る 足利義昭は室町時代後期にあたる天文6年(1537年)11月13日、 室町幕府第12代将軍・足利義晴と近衛尚通の娘・慶寿院の次男として誕生しました。 同母兄には 後に第13代将軍となる足利義輝がいました。 足利義晴 天文11年(1542年)11月20日、まだ5歳の義昭 幼名・千歳丸 は兄である足利義輝と跡取り争いを避けるため、または興福寺との結びつきを強めるため母方の祖父である近衛尚通と親子関係を結び、 興福寺に入りました。 この時、 「覚慶」と名乗っていたとされています。 出家し、仏門に入った義昭はこのまま「覚慶」と名乗り、僧侶として生涯を終えるはずでした。 足利将軍家では兄弟間での跡取り争いを避けるために嗣子以外の男子は出家することが慣習となっていました。 そのため義昭もその慣習に従い、出家したのでした。 足利将軍家の当主になることを宣言 天文15年(1546年)12月、兄の足利義輝がわずか11歳にして父・足利義晴から将軍職を譲られます。 足利義輝 11歳にして 第13代将軍となった兄の足利義輝でしたが、永禄8年(1565年)5月、足利義輝は母・慶寿院、弟・周暠 足利義晴の三男 とともに 松永久通、三好三人衆によって暗殺されてしまいます。 これは 永禄の変と呼ばれ、この時、覚慶 足利義昭 も束縛され興福寺に幽閉されることとなりました。 兄の義輝亡き後、次期将軍として有力視されたのは弟である覚慶でした。 しかし、松永久通、三好三人衆は従兄弟の足利義栄を次期将軍にしようと擁立し始めます。 興福寺で幽閉されていた覚慶でしたが、同月7月28日には兄・義輝の側近であった一色藤長、和田惟政らによって救出され、伊賀国に脱出した後、近江国甲賀郡にある和田城で保護されることとなります。 覚慶はこの和田城で兄・義輝亡き後足利将軍家の当主になることを宣言したのでした。 敵対する勢力を和睦させ、上洛に協力させよう! そのため実際に近江国の守護・六角義賢は和田惟政に命じ浅井氏と織田氏の和睦のために織田信長の妹・市と浅井長政の婚姻に関わる、信長と斎藤龍興を説得し和解に持ち込むなどの働きを見せました。 次々と敵対する勢力を和睦に持ち掛けた義秋の働きを見て三好三人衆の三好長逸は、矢島御所に攻撃を仕掛けてきましたが親衛隊の働きもあり、追い返すことに成功しました。 六角義賢 なかなか上洛することができず 六角義賢の働きもあり、 織田信長は義秋の上洛に協力すると約束し、兵を上洛させようとしましたが、永禄9年(1566年)8月、斎藤龍興が尾張国を攻めてきたため、織田軍は尾張国に一時撤退を余儀なくされます。 またこの頃になると、義秋の上洛に積極的であったはずの 六角義賢が三好三人衆に説得され、三好三人衆に寝返ってしまったため、義秋は妹婿であった武田義統を頼り、 矢島から若狭国へと移りました。 織田信長 翌月の9月になると若狭国から 越前国の朝倉義景のもとに移り、朝倉義景に上洛の協力要請を行います。 しかし、朝倉義景は上洛要請を渋り、義秋は越前国に長期間滞在することとなりました。 義秋は 上杉謙信も頼りにしていましたが、この頃上杉謙信は武田信玄との対立や本庄繁長の反乱などで忙しく、上洛に協力するほどの余裕はありませんでした。 なかなか上洛できない… とうとう従兄弟の足利義栄が第14第将軍となってしまう 第13第将軍であった兄の義輝亡き後、義秋が次期将軍になれる可能性は高いものの、対抗馬として従兄弟の足利義栄がいました。 しかし、義輝の弟であるがために圧倒的に義秋は有利な環境にいたのです。 それにもかかわらず、なかなか上洛できない義秋に対し三好三人衆が擁立する従兄弟の足利義栄は京都の実質的支配者となり、永禄11年(1568年)2月8日、将軍宣下を受け第14第将軍となりました。 足利義栄 義昭に改名する なかなか上洛しないがために従兄弟の足利義栄に将軍職を奪われた義秋。 そんな義秋は永禄11年(1568年)4月15日、「義秋」の「秋」という文字は不吉であると 「義秋」から「義昭」に改名します。 その後、朝倉家の家臣・明智光秀に仲介され、義昭は尾張国の織田信長のもとへと移りました。 将軍に就任 永禄11年(1568年)9月、義昭は織田信長軍と浅井長政軍に警護されながら上洛に踏み込みます。 上洛途中、六角義賢の攻撃もありましたが、何とか上洛を果たすことができました。 無事京都に到着した義昭を見て三好三人衆の勢力は京都から撤退を図ります。 義昭が上洛を果たした数日後、第14第将軍であった従兄弟の足利義栄が病によって亡くなります。 これによって義昭は10月18日、将軍宣下を受け 第15代将軍に就任することとなりました。 やっと上洛、将軍に就任! 本圀寺の変 将軍となった義昭は兄・義輝の暗殺、足利義栄の将軍襲職に関わった近衛前久を追放し、二条晴良を関白職に復職させます。 その他にも細川昭元や畠山昭高、二条昭実の安堵を図るなどし、政権の安定化を目指しました。 幕府の機能を再興させた義昭は当初、 本圀寺を仮御所としていましたが、その本圀寺が永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆によって襲撃されます 本圀寺の変。 義昭は兄・義輝と同様に三好三人衆によって殺害されるかと思われましたが、浅井長政や池田勝正、和田惟政、三好義継らの奮戦によって命を守ることができました。 その後、義昭は織田信長に命じ 烏丸中御門第 旧二条城 を整備させ、ここを拠点とします。 織田信長との対立 烏丸中御門第を拠点に幕府を再興した義昭は、 織田信長の功績を称え「室町殿御父」という称号を与えました。 さらに織田信長は和泉一国の支配を望んでいたため義昭は 織田信長を和泉守護に就任させます。 この時、織田信長のみならず義昭は池田勝正や畠山高政、三好義継らにも恩賞を与えました。 織田信長に恩賞を与えた義昭でしたが 天下統一を目論む織田信長、 幕府再興を願う義昭 の考え方のズレから関係はこじれはじめるようになります。 いやいや、幕府の再興だ! 両者の関係悪化は止まらず、永禄12年(1569年)1月14日、織田信長は義昭の将軍権力を制約するため 「殿中御掟」と呼ばれる9か条の掟書を義昭に突きつけました。 この掟書を承諾した義昭でしたが、さらに永禄13年(1570年)1月にはその「殿中御掟」に5箇条が追加されることとなります。 信長包囲網の形成 両者の関係は修復不可能となり、織田信長に不満を抱いた義昭は元亀2年(1571年)頃から 上杉謙信や 武田信玄、 毛利輝元や 六角義賢に反織田信長になるよう御内書を送り始めました。 つまり義昭は武田氏や上杉氏、毛利氏などと手を組み、信長を包囲しようとしたのです。 (信長包囲網) 織田信長との講和 元亀3年(1572年)10月、織田信長から 17条の意見書が送られてきます。 この意見書は義昭に対する信長の意見が長々とつづられたもので、いわば足利義昭に対するダメ出しが記されたものです。 この意見書がきっかけとなり、義昭は信長に対し挙兵を開始しました。 元亀4年(1573年)正月、織田信長は自身の子供を人質として義昭に和睦を試みますが、義昭はこの和睦に応じませんでした。 和睦に失敗した織田信長は知恩院に陣を敷くと、義昭は居城である烏丸中御門第に籠り、信長軍の攻撃に抵抗します。 織田信長は再び和睦を義昭に要請しましたが、義昭はこれに応じることはありませんでした。 そのため、ついに織田信長は義昭が立てこもる烏丸中御門第を包囲し圧力をかけ始めたのでした。 しかし、織田信長は義昭を攻めようとはせず、朝廷に義昭との仲裁を頼み込みます。 それを受け朝廷は勅命を出し、結果、織田信長と義昭は講和することとなりました。 織田信長に降伏 織田信長と講和し槇島城に移った義昭でしたが、元亀4年(1573年)7月3日、 講和を破棄し槇島城から織田信長に挙兵します。 しかし7月18日になると織田信長軍によって槇島城は壊滅状態となり、義昭はしぶしぶ降伏することとなりました。 槙島城記念碑 京都から追放され、室町幕府は滅亡を迎える 織田信長に降伏した義昭はその後、織田信長によって京都から追放されてしまいます。 義昭が京都から去ったあと、信長は天下人として権力を持つようになりました。 一般的に義昭が京都から追放されたことで室町幕府は滅亡したとされていますが、京都から追放された後も義昭は将軍職を解官されておらず、将軍としての権威は持ったままでした。 織田信長によって追放された理由を簡単に 足利義昭は初めから織田信長と対立していたわけではありません。 なかなか上洛できずにいた足利義昭は織田信長軍に警護され上洛を果たすことができた後、将軍になることとなったのですから、 織田信長には感謝していたのです。 さらに、織田信長に 烏丸中御門第 旧二条城 を整備してもらうなど、 織田信長との関係性は非常に良好でした。 非常に良好な関係を築けていた両者でしたが、元亀3年(1572年)10月、織田信長から 「17条の意見書」と呼ばれる意見書が送られてきました。 この意見書には• 織田信長に対し友好的な感情を持つ者を不当に扱っているそうで、彼らは迷惑しています。 どういったおつもりでそのような扱いをするのですか?• 諸国から金銀を徴収しているにも関わらず、朝廷や幕府のために使用されないのはなぜなのでしょうか?• 昨年の夏、兵糧庫の米を売り金銀に変えたという話を聞きました。 将軍が商売をするなんて聞いたことがありません。 足利義昭様のやり方には驚いてしまいました。 といった織田信長の意見が記されており、いわば ダメ出しのようなものだったのです。 この意見書を受け取った足利義昭は織田信長に対し苛立ちをみせ、両者は対立関係となりました。 しかし、実際には足利義昭に対する世間の評価は悪く、 織田信長は単純に改善点を報告しただけとされています。 つまり、足利義昭を怒らせるために意見書を送ったわけではないということです。 織田信長の指摘に怒りを見せた足利義昭は、信長包囲網を形成し織田信長と対立を深めようとしました。 こうして両者は交戦することとなりますが、 織田信長は朝廷に足利義昭との仲裁を頼みこみ、これを受け朝廷が両者の間に入り 足利義昭と織田信長は講和することとなったのでした。 朝廷に仲裁を頼み込んだのですから、はじめから足利義昭を攻めようと考えていた訳ではなさそうです。 しかし、足利義昭は講和を破棄し再び挙兵、結果足利義昭は織田信長に降伏し京都から追放されることとなったのでした。 もともとは仲が良かったものの、織田信長が意見書を送ったがために関係性はこじれた。 しかし、織田信長は足利義昭を攻める意志はなかった。 という考え方がある一方で、 もとから足利義昭と織田信長の考え方は違ったので、天下統一の邪魔な存在となった足利義昭を織田信長は攻めた。 といった考えがあります。 追放後は各地を転々とする 京都から追放された義昭はいったん枇杷荘(現在の京都府城陽市)に留まりましたが、その後は三好義継のいる河内若江城に移ったとされています。 その後、堺に移り、天正2年(1574年)には紀伊国の興国寺に移りました。 ついで田辺の泊城、天正4年(1576年)には毛利輝元を頼り備後国の鞆へと移ります。 秀吉が 関白太政大臣となり、「関白・秀吉、将軍・義昭」の時代が続く~本能寺の変 義昭が備後国の鞆に滞在していた天正10年(1582年)6月2日、宿敵である織田信長が明智光秀によって殺害されます 本能寺の変。 「本能寺焼討之図」 関連記事 義昭はまだ上洛を望んでいたため、織田信長亡き後、毛利輝元に上洛の協力を要請しました。 そんな毛利輝元が天正11年(1583年)、羽柴秀吉に臣従し天正13年(1585年)7月には羽柴秀吉が 関白太政大臣となりました。 義昭は信長によって京都から追放されたものの、次期将軍をまだ決めていなかったためまだ将軍ではありました。 そのため、関白・秀吉、将軍・義昭という時代は約2年半ほど続くこととなります。 羽柴秀吉 秀吉が天下統一を果たす まだ将軍としての権力を保持していた義昭は羽柴秀吉と対立していた島津義久に羽柴秀吉との和睦を勧めます。 また天正15年(1587年)4月にはまたもや島津義久に羽柴秀吉と和睦するよう勧めました。 こうした義昭の働きもあり、島津義久は秀吉に降伏し、秀吉は天下統一を果たすこととなりました。 九州平定 関連記事 足利義昭の最期 秀吉が天下統一を果たした天正15年(1587年)10月、義昭は秀吉に帰還を許され京都に帰還することとなりました。 天正16年(1588年)1月13日には 将軍職を辞し「昌山(道休)」と名を変え出家します。 晩年は秀吉の御伽衆、つまり秀吉の良き話し相手を務めていたとされています。 その後、慶長2年(1597年)8月、義昭は61歳で大阪で亡くなりました。 まとめ 足利義昭の生涯と、京都から追放された経緯、理由についてご紹介いたしました。 京都から追放された後、足利義昭がどのように過ごしていたのかはあまり知られていませんが、実は京都から追放後も将軍の権力を維持し続けていたのです。 十数年ぶりに京都に帰還した足利義昭はその後、豊臣秀吉の話し相手となっていたとされています。 関連記事.

次の