大学 テスト カレー ライス。 教授講師陣|カレー大學(カレー大学)

6年国語「カレーライス」実践編4

大学 テスト カレー ライス

通算2506枚目の通信(新星)より 『カレーライス』の学習が佳境を迎えました。 あと一時間で全ての内容を修了します。 この物語を通して学びたい内容は、主に2つあります。 その1つが、「視点の種類」です。 少し長くなりますが、引用します。 =============================== 「お父さんウィーク」の初日、お父さんは、さっそく特製カレーライスを作った。 「ほら食べろ、お代わりたくさんあるぞ。 」 と、ごきげんな顔で大盛りのカレーをぱくつく。 でも、お父さんは料理が下手だ。 じゃがいもやにんじんの切り方はでたらめだし、しんが残っているし、何よりカレーのルウが、あまったるくてしかたない。 カレー皿に顔をつっこむようにしてスプーンを動かしていたら、お父さんが、 「まだおこっているのか。 」 と笑いながら言った。 「ひろしもけっこう根気あるんだなぁ。 」 根気とはちょっとちがうと思う。 どっちにしても、返事なんか、しないけど。 「この前、いきなりコードぬいちゃって、悪かったなぁ。 」 あっさりあやまられた。 最初の予定では、これでぼくもあやまれば仲直り完了。 —のはずだったけど、ぼくはだまったままだった。 「でもな、一日三十分の約束を守らなかったのは、もっと悪いよな。 」 分かってる、それくらい、でも、分かってることを言われるのがいちばんいやなんだってことを、お父さんは分かってない。 「で、どうだ、学校、最近おもしろいか。 」 ああ、もう、そんなのどうだっていいじゃん。 言葉がもやもやとけむりみたいになって、むねのなかにたまる。 知らん顔してカレーを食べ続けたら、お父さんもさすがにあきらめたみたいで、そこからはもう話しかけてこなかった。 「お父さんウィーク」の初日は、そんなふうに、おしゃべりすることなく終わった。 ================================ 一人称視点 この文を読んでも分かるように、物語の視点はずっと「ぼく」の中にあります。 このように、「ぼく」や「私」など、自分の中に視点がある書き方を「一人称視点」といいます。 これに対して、「彼」「お母さん」「大造じいさん」など、自分以外の中に視点がある書き方を「三人称視点」といいます。 さらに、三人称視点は二つに分かれます。 三人称限定視点と、三人称全知視点です。 限定視点は、視点が入っている人物が変わりません。 昨年春に習った「あめ玉」などがそうです。 視点はずっと「お母さん」の中にあり、移動しないからです。 対して全知視点では、視点の位置が移動します。 「ごんぎつね」や「大造じいさんとガン」などがそうです。 例えば、「大造じいさんとガン」では、大造じいさんの中にあった視点が、残雪の中に移る部分が度々あります。 これらの内容を、説明しながらノートにまとめさせました。 つまるところ、物語の種類は左の三種類に集約されます。 簡単に言えば、書きにくいからです。 (表現の幅が限られる、と言った方が近いかもしれません。 ) 「僕・私」の感情は豊かに表現できる一方で、「僕・私」の知っていること以外は物語に登場させることができないデメリットをもちます。 視点の移動が不可能だからです。 したがって、「マサエは」「大造じいさんは」「兵十は」といった三人称視点の作品が圧倒的に多くなるのです。 表現の幅が広くなり、特徴を出しやすくなるメリットがあるからです。 そういった意味で、今回の「カレーライス」は一人称視点を学ぶ絶好のチャンスだと言えます。 そこで、次の様に授業を組み立てました。 視点チェンジ 三種類の視点を学んだ後に行ったのが、「視点チェンジ」です。 視点がどのようなものなのかを知る効果的な方法の一つに、「文の書き換え」があります。 視点が変われば、文が変わるため、文を直す作業を通してその仕組みを理解することができます。 今回のカレーライスにも、それを応用しました。 前号で引用した部分の「ひろしの視点」を、「お父さんの中に移す」というものです。 一人称視点はそのままです。 百聞は一見に如かず。 ひとまず、子どもたちの書いた作品をご覧ください。 ============================== カレーライス(一人称・お父さん視点) T・N 「お父さんウィーク」の初日、わしは、早速特製カレーライスを作った。 「ほら食べろ、お代わりたくさんあるぞ。 」 わしは、ドキドキしながら、大盛りのまずいカレーを食べた。 わしは、料理が下手だ。 会社で、カレーを作ったら、社員全員あまりのマズさに気を失ったことがある。 きんちょうしながらカレーを食べているのは、あまりのマズさにひろしがたおれないかが心配で、ドキドキしているのだ。 「まだおこっているのか。 」 と、笑いながら言った。 「ひろしもけっこう根気あるんだなぁ。 」 あーーーーめんどくせ~~~~~~。 早くあやまれよ、ひろし。 返事してくれよ~~~~~。 わしから、あやまるか。 「この前、いきなりコードをぬいちゃって、悪かったな。 」 返事してくれよ~~~~。 よし、作戦を変えるか。 「でもな、一日三十分の約束を守らなかったのは、もっと悪いよな。 」 ひろし~。 「で、どうだ。 学校最近おもしろいか。 」 ひろし~。 返事してよ~。 あいつ、何で目をそらすんだ。 「お父さんウィーク」の初日は、そんな風におしゃべりをすることなく終わった。 ============================= ============================= カレーライス(一人称・お父さん視点) M・I 「お父さんウィーク」の初日。 ひろしと仲直りする予定の日だ。 心の中で準備してから言った。 「ほら食べろ、お代わりたくさんあるぞ。 」 ごきげんな顔でカレーを食べたけど、心の中は雨マーク。 今日のカレーは、上手に作れた。 でもひろしは、ごきげんななめ。 言おうか言うまいか、ずっと迷っていたけど、こうなったら—— 「まだおこっているのか。 」 言っちゃったー。 怒っているように思われたくないから、笑ってごまかした。 「ひろしもけっこう根気あるんだなぁ。 」 何言ってんだ。 おれは。 ひろしにきらわれるばかりじゃないかー。 仲直りできそうもないな。 少しあやまろう。 「この前、いきなりコードをぬいちゃって、悪かったな。 」 どうだ。 これで、ひろしのきげんもちょっとはよくなっただろ。 あれ?なにも言わない。 もう、限界だ。 「でもな、一日三十分の約束を守らなかったのは、もっと悪いよな。 」 ちょっとすっきり。 でも、ひろしには、逆効果だと思う。 「で、どうだ。 学校最近おもしろいか。 」 ひろしの顔色をうかがって言ってみたんだが、またまた逆効果だった。 だまったままだったら、何も分からないじゃないか。 ひろし、何か言って—。 もういいか。 何を言っても無理だろう。 あきらめたくないけど・・・。 「お父さんウィーク」の初日、ひろしの声は聞けなかった。 =========================== 他にも、奇想天外な「お父さんの気持ち」を書いた子がたくさんいました。

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コンドリーザ・ライス

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総時数6. 5時間で「カレーライス」の学習が終わった。 (市販テストが未実施なので、それも含めると全部で7時間の学習になる。 ) 今回、私は「話し合い」「発表」の場を全く設けなかった。 教師が問いかけて、子どもが挙手して発言する場面がゼロだったのである。 「話し合い」「発表」が有効と思えば使っていたと思うが、有効と思える学習活動がなかったから使わなかったのである。 例えば、次のような授業を想定する。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1場面の「ひろし」の気持ちを考えよう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 子どもたちがノートに考えを書いて、発表する。 「セーブもさせずに電源を切るなんてひどいと怒っている。 」 「自分も少しは悪いと思っているけど、お父さんのしたことの方がものすごく悪いので、引き算すると自分は悪くないと言い聞かせている。 」 「時間の約束をやぶったことなんて小さなことだと思っている。 」 「自分も悪いことは分かっているけど、このけんかに負けたくないと思っている。 」 などの意見が出るのだろう。 浅い読みもあれば、書いていない部分まで想像した深い読みもあるだろう。 ごく一般的な授業であるが、私は疑問を感じる。 これらの意見の交流によってどんな学びが生まれるというのか? 私もこういう授業を数知れずやってきたから思うのであるが、このような授業で生まれる学びは非常に浅い。 それは最後に学習の振り返りをしてみれば分かる。 授業の最初と最後で、子どもたちは自分の意見を変えることは稀である。 授業の中でも、教師がいくつもの意見に対して優劣をつけることはない。 「どれも正しい」「どれも考えられる」というまとめしかできない。 どれもよいなら、自分の意見が一番という結論になるのは当たり前である。 かつて分析批評という手法が国語の学習に取り入れられた時、作品は客観的に扱われ、そこにははっきりとした「答え」があった。 その答えが作者の意図にそぐわないものであったとしても、作品(言葉)を分析した結果が絶対であった。 今は、読者至上主義である。 読者がどのように感じたかが優先である。 学習指導要領の中学年の目標(指導事項)に「文章を読んで考えたことを発表し合い、一人一人の感じ方に違いがあることに気付くこと。 」とあることからもその傾向が分かる。 今回の私の授業では、1場面の「ひろし」の気持ちに「分からない」と青線をつけた子も何人もいた。 私は「分からない」ならそれでいいと思う。 それが自然な読みであると思う。 「分からない」と青線を引いた時点で、ちゃんと「ひろし」の気持ちを考えている。 それで十分である。 「気持ちを考えよう」という課題は、「分かる」子には、分かる理由を他の言葉で置き換えさせ、「分からない」子には推測し、分からないなりに言葉で置き換えさせる作業をさせることである。 私には、無理と無駄が大きい作業に思える。 第一、楽しい学習に思えない。 そこで、自分が引いた赤線と青線を友達と見比べさせる学習を行った。 私の予想以上に会話が生まれた。 そして、自分に対する気づき、友達に対する気づきが生まれた。 その気づきの中で、「ひろし」に対する理解も深くなったと思う。 少なくとも「登場人物の気持ちを別の言葉で置き換えて発表する」学習よりは実感の伴う理解ができたと思う。 残念なことに、「全員に」「同程度の」学びを与えられるかという意味では安定性はない。 そのために私は、「一番心配な子」を常に注意深く見ている。 一番心配な子が大丈夫であれば、他の子らも大丈夫だろうという捉え方をしている。 今回は、一番心配な子にも少なからず学びを見取ることができた。 そして全員が自分の体験を交えた感想文を書くというゴールに至ったことで、この学習の大きな目標は達成できたと考えている。 教師にとっても、子どもたちにとってもストレスがなく、楽しく、シンプルな授業ができたと思う。

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大学のテストで「カレーの作り方」を書くと単位がもらえる都市伝説について検証してみた

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総時数6. 5時間で「カレーライス」の学習が終わった。 (市販テストが未実施なので、それも含めると全部で7時間の学習になる。 ) 今回、私は「話し合い」「発表」の場を全く設けなかった。 教師が問いかけて、子どもが挙手して発言する場面がゼロだったのである。 「話し合い」「発表」が有効と思えば使っていたと思うが、有効と思える学習活動がなかったから使わなかったのである。 例えば、次のような授業を想定する。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1場面の「ひろし」の気持ちを考えよう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 子どもたちがノートに考えを書いて、発表する。 「セーブもさせずに電源を切るなんてひどいと怒っている。 」 「自分も少しは悪いと思っているけど、お父さんのしたことの方がものすごく悪いので、引き算すると自分は悪くないと言い聞かせている。 」 「時間の約束をやぶったことなんて小さなことだと思っている。 」 「自分も悪いことは分かっているけど、このけんかに負けたくないと思っている。 」 などの意見が出るのだろう。 浅い読みもあれば、書いていない部分まで想像した深い読みもあるだろう。 ごく一般的な授業であるが、私は疑問を感じる。 これらの意見の交流によってどんな学びが生まれるというのか? 私もこういう授業を数知れずやってきたから思うのであるが、このような授業で生まれる学びは非常に浅い。 それは最後に学習の振り返りをしてみれば分かる。 授業の最初と最後で、子どもたちは自分の意見を変えることは稀である。 授業の中でも、教師がいくつもの意見に対して優劣をつけることはない。 「どれも正しい」「どれも考えられる」というまとめしかできない。 どれもよいなら、自分の意見が一番という結論になるのは当たり前である。 かつて分析批評という手法が国語の学習に取り入れられた時、作品は客観的に扱われ、そこにははっきりとした「答え」があった。 その答えが作者の意図にそぐわないものであったとしても、作品(言葉)を分析した結果が絶対であった。 今は、読者至上主義である。 読者がどのように感じたかが優先である。 学習指導要領の中学年の目標(指導事項)に「文章を読んで考えたことを発表し合い、一人一人の感じ方に違いがあることに気付くこと。 」とあることからもその傾向が分かる。 今回の私の授業では、1場面の「ひろし」の気持ちに「分からない」と青線をつけた子も何人もいた。 私は「分からない」ならそれでいいと思う。 それが自然な読みであると思う。 「分からない」と青線を引いた時点で、ちゃんと「ひろし」の気持ちを考えている。 それで十分である。 「気持ちを考えよう」という課題は、「分かる」子には、分かる理由を他の言葉で置き換えさせ、「分からない」子には推測し、分からないなりに言葉で置き換えさせる作業をさせることである。 私には、無理と無駄が大きい作業に思える。 第一、楽しい学習に思えない。 そこで、自分が引いた赤線と青線を友達と見比べさせる学習を行った。 私の予想以上に会話が生まれた。 そして、自分に対する気づき、友達に対する気づきが生まれた。 その気づきの中で、「ひろし」に対する理解も深くなったと思う。 少なくとも「登場人物の気持ちを別の言葉で置き換えて発表する」学習よりは実感の伴う理解ができたと思う。 残念なことに、「全員に」「同程度の」学びを与えられるかという意味では安定性はない。 そのために私は、「一番心配な子」を常に注意深く見ている。 一番心配な子が大丈夫であれば、他の子らも大丈夫だろうという捉え方をしている。 今回は、一番心配な子にも少なからず学びを見取ることができた。 そして全員が自分の体験を交えた感想文を書くというゴールに至ったことで、この学習の大きな目標は達成できたと考えている。 教師にとっても、子どもたちにとってもストレスがなく、楽しく、シンプルな授業ができたと思う。

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