飛鳥文化 仏像 特徴。 【飛鳥文化・天平文化・白鳳文化の違い】特徴を簡単にわかりやすく解説!!

飛鳥文化(あすかぶんか)とは

飛鳥文化 仏像 特徴

仏像彫刻品の種類や見分け方、時代ごとの特徴 仏像彫刻品は、寺院や美術館に安置、陳列されているものだけでなく、個人所有のものやお地蔵様など、多数現存しています。 仏像彫刻品を見る際に、彫刻に関する知識があると、より興味深く鑑賞することができるのではないでしょうか。 そこで今回は、仏像彫刻品の種類や見分け方、時代ごとの特徴についてご紹介します。 仏像の種類 仏様の姿を彫り刻んだ像である仏像は、狭い意味では 「如来(釈迦如来、阿弥陀如来など)」「菩薩(観音菩薩、地蔵菩薩など)」「明王(不動明王・愛染明王など)」「天(帝釈天・毘沙門天など)」の像を指します。 しかし、 弘法大使や羅漢などの祖師像、僧形八幡神像などの神像も仏像に含めることがあります。 仏像の誕生 初期の仏像は、 釈迦の姿を拝むために作られたといわれています。 しかし、釈迦が亡くなってからすぐに仏像が作られるようになったわけではありません。 釈迦の没後しばらくは、菩提樹や法輪、足跡などで釈迦は象徴的に表されていました。 生前の釈迦が、弟子に「自らを灯とし、法を灯とせよ(自己と法(真理)を拠りどころとしなさい)」と教えを説いたため、偶像崇拝がはばかられたことが影響していると考えられています。 その後、仏像が作られるようになったのは アレクサンドロス大王の東方遠征によって、西方のギリシャ文化や古代オリエント文化がアジアに持ち込まれた影響です。 光背(後光)を背負うギリシャ風の顔立ちをした釈迦には、ヘレニズム文化が色濃く出ています。 ガンダーラ仏像の特徴 西北インドのガンダーラ地方と北インドのマトゥラー地方で最初の仏像が作られ、中央アジアから東アジアへと伝わっていきました。 仏像が作られた時期は1世紀末から2世紀初めといわれています。 ガンダーラ仏像は、 眉間の上の白く長い毛(白毫)、カールした長髪を頭上で束ねた肉髻、西洋人風の容貌,両肩を覆う厚手の衣に深く刻まれた襞などを特色とし,表現は 具体的・現実的な傾向が強く、 光背を背負っているという特徴を持ちます。 日本の仏像と時代ごとの特徴 日本には、 木像、石象、塑像、乾漆像、金銅像などの仏像が存在します。 木像が多く作られる時代もあれば、金銅像が多く作られる時代があるなど、時代によって仏像に使用される材質が異なります。 ここでは飛鳥時代から鎌倉時代までの仏像についてご紹介します。 飛鳥時代 中国や朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝わり、仏像も作られるようになりましたが、伝わって間もない飛鳥時代は 釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩の仏像に限られていました。 北魏様式と南梁様式の2タイプがあり、左右対称の幾何学的衣文、杏仁形の目、仰月形の唇があれば 北魏様式、顔・姿が柔和な特徴を持つ仏像であれば 南梁様式です。 白鳳時代 白鳳時代には仏像の種類が増え、南アジアやインド風の仏像も作られます。 明るく若さにあふれた作風の金銅像が多くなります。 代表的な仏像として、薬師寺の三尊像や聖観音像、法隆寺阿弥陀三尊像・夢違い観音像があります。 天平時代 天平時代には、国が寺の建立や仏像の造営、仏教の地方への伝播に努めたこともあって、技法も 石造、乾漆造、塑造などのさまざまな技法で仏像が作られます。 写実的で美しい体型のものが多く、東大寺法華堂の日光・月光菩薩像や不空羂索観音像、東大寺戒壇堂四天王像、新薬師寺十二神将像が有名です。 平安時代初期~中期 平安遷都以後は木像が主流となり、 密教派の多面多臂(複数の手と顔を持つ)の明王像などが多く作られます。 豊満で切れ長の目が特徴です。 観心寺如意輪観音像や神護寺五大虚空蔵菩薩像なども密教と結びつきのある仏像です。 平安時代後期 平安時代後期、遣唐使が廃止されると 和様彫刻が中心となり、中でも仏師の定朝による 「定朝様」が隆盛を極めます。 伏し目・丸顔の穏やかな風貌と優美な体型が特徴です。 また、末法思想の影響により、三十三間堂などのような 大規模な仏像群も作られました。 地方にも豊後臼杵の磨崖仏群や奥州平泉の中尊寺の仏像などがあります。 平等院や浄瑠璃寺の阿弥陀如来像も平安時代後期に生まれました。 鎌倉時代 鎌倉時代には、 武士の気風を感じさせる力強く写実的な仏像が好まれるようになります。 運慶らが中心となり、東大寺南大門金剛力士像のような 大規模で巨大な像も造られました。 中国から「宋朝様」の仏像が伝来した時期も鎌倉時代です。 おわりに 中国や朝鮮半島から伝わった仏像は日本独自の進化を遂げ、現在では日本の伝統文化として世界から高く評価されています。 時代ごとの特徴を押さえて、仏像の良さを深く味わってみてはいかがでしょうか。 「いわの美術」では、仏像彫刻品の査定・買取も行っています。 ご自宅に仏像が眠っている場合は、価値を確かめるためにも一度査定を検討してみてはいかがでしょうか。

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日本最古の仏像「飛鳥大仏」が鎮座する飛鳥寺は蘇我馬子が建立した古寺

飛鳥文化 仏像 特徴

高句麗が南下をはじめ、新羅、百済が圧迫されます。 当時の朝鮮半島は下図の状況でした。 大伴金村は百済を救助するために、ヤマト政権が支配していた 加耶西部を百済に割譲します。 これが 任那4県割譲です。 これに対して、 百済は有効の印として儒教の 五経博士を日本に送ります。 五経とは儒教の経典で、「詩経(しきょう)・書経(しょきょう)・礼記(らいき)・易経(えききょう)・春秋(しゅんじゅう)」の5つを指しています。 しかし、高句麗に圧迫された新羅の加耶への進出が止まらなかったので、ヤマト政権は軍隊を朝鮮半島に上陸させようとしましたが、そこで起こったのが筑紫国造(福岡県)であった 磐井の乱(527年)です。 527年| 磐井の乱…筑紫国造磐井が新羅と結んで反乱 『日本書紀』には、磐井は新羅から賄賂をもらって乱を起こしたと記されています。 これにより、ヤマト政権軍は朝鮮半島に上陸できませんでした。 この磐井の乱を鎮圧したのが 大伴金村ろ 物部麁鹿火(あらかび)です。 福岡県の 岩戸山古墳は筑紫国造岩井の墓だとされていることも復習しましょう。 石人・石馬で有名ですね。 継体天皇の後は安閑天皇、宣化天皇と続き、そして欽明天皇の即位です。 欽明天皇の頃 欽明朝のポイントは、朝鮮半島南部の情勢と有力豪族の勢力争い、そして仏教公伝です。 大伴金村が行った 任那4県割譲の意味がなかったことの責任をとり、 540年に大伴金村は失脚します。 これにより 物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがります。 540年| 任那4県割譲で 大伴金村の失脚、 物部氏と蘇我氏の台頭 そして、欽明天皇の治世で最も大きな出来事が 仏教公伝です。 百済の聖明王からヤマト政権の欽明天皇に伝えられました。 『日本書紀』によると 552年に仏教が伝わったとされています (壬申説)が、 『上宮聖徳法王帝説』と 『元興寺縁起』によると、 538年に仏教公伝とされています (戊午説)。 欽明天皇は 蘇我稲目にこれを託して仏教を興すように命じています。 これにより、 仏教を積極的に導入しようとする蘇我氏と、仏教の導入に懐疑的な物部氏の確執が生じます、これが 崇仏論争です。 これは子の蘇我馬子と物部守屋の代で決着がつきます。 馬子が丁未(ていび)の乱で物部氏を滅ぼしたことで決着がつきます。 552年| 仏教公伝(壬申説)『日本書紀』• 538年| 仏教公伝(戊午説)『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』 欽明天皇の願いは任那復興でしたが、それは叶わず崩御します。 その後は敏達天皇、用明天皇と続き、蘇我馬子によって擁立される崇峻天皇が登場します。 崇峻天皇の頃 崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立されたわけですから、蘇我氏の絶頂期をむかえているわけです。 蘇我氏は連ではなく臣でしたね。 また、渡来人とも結びつき、大陸の進んだ文化の受容を積極的に推進します。 もちろん崇仏派です。 物部氏と崇仏か廃仏かで争っていましたが、 蘇我馬子が物部守屋を丁未(ていび)の乱で滅ぼし、権力の絶頂期をむかえます。 南北朝で混沌としていた中国では、 隋がついに統一を果たします。 崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立されましたが、軋轢が生まれたことで馬子らの手によって暗殺されてしまいます。 587年| 三蔵を掌握し、 大臣 蘇我馬子(財政担当)が 大連 物部守屋(軍事担当)を滅ぼす。 589年| 隋が南北朝を統一• ここは下記の「聖徳太子」で詳述しています。 594年| 仏法興隆の詔• 600年|倭国の使者が隋に到着(『隋書』倭国伝のみ記載)• 603年| 冠位十二階の制…(徳・仁・礼・信・義・智)位階は個人に対して1代限り• 604年| 憲法十七条…豪族たちに国家の官僚としての自覚を求める「和を以て貴しとなし」「驚く三宝 仏教 を敬へ」• 607年| 遣隋使の派遣… 小野妹子の派遣(『隋書』倭国伝・『日本書紀』ともに記載)• 618年|障が滅び、 唐がおこる• 620年| 『天皇記』『国記』の成立… 厩戸王と馬子が編集しはじめたとされる歴史書 舒明天皇の頃 推古天皇の崩御後、蘇我蝦夷によって擁立されています。 政治権力の中枢はまだ蘇我氏です。 隋に変わって唐が起こったので、遣隋使から遣唐使に変わっています。 この第1回遣唐使として派遣されたのが犬上御田鍬です。 ちなみに614年の最後の遣隋使も犬上御田鍬です。 630年|最初の 遣唐使の派遣… 犬上御田鉄の派遣 このとき、のちの大化の改新前後で活躍する、 高向玄理・南淵請安・僧旻が帰国します。 聖徳太子 厩戸王(聖徳太子)は、最初の女帝である推古天皇の甥、用明天皇の第2皇子で、推古天皇の皇太子、摂政となり、蘇我馬子と協力して、中国や朝鮮に学び、大王(天皇)中心の政治を、次のような政治を行いました。 冠位十二階の制 『日本書紀』憲法十七条 皇太子、親ら肇めて憲法十七条をつくる。 一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。 人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。 或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。 然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。 何事か成らざらん。 二に曰く、篤く三宝を敬へ。 三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。 則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。 はなはだ悪しきもの少なし。 よく教えうるをもって従う。 それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。 三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。 天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。 地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。 こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。 故に詔を承りては必ず慎め。 謹まずんばおのずから敗れん。 四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。 其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。 上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。 下礼無きときは、必ず罪有り。 ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。 第1条、和を大事にし、争うことが無いようにせよ。 … 第2条、仏教を尊重せよ。 三宝とは仏と法と僧である。 … 第3条、天皇の命令が出たらこれを謹んで尊重せよ。 天皇は天であり、臣下は地である。 … 遣隋使 『隋書』倭国伝 ~607年の遣隋使~ 大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。 … 其の国書に曰く、 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と。 帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて曰く、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以て聞する勿れ」と。 明年、上、文林郎 裴清を遣して倭国に使せしむ。 西暦607年、倭の王、多利思比孤が使者を派遣し、朝貢してきた。 その国書には、 「太陽の出る所に住む天子から、太陽の沈む所に住む天子に手紙を出します。 お元気ですか」とあった。 煬帝はこれを見て不快になった。 外交の担当者に、蛮夷のこの手紙は無礼だ、二度とこんな手紙を受け取るなと命じた。 しかし、翌年、煬帝は文林 裴世清を使者として倭国に派遣しました。 中国を統一した隋にこのような無礼な手紙を出すのは、一種のかけでもあったと思います。 しかし、当時、隋は 高句麗との戦いで苦労していたから事なきを得ました。 この608年の答礼使は、『日本書紀』にも記述があります。 『日本書紀』 ~608年の答礼使~ 推古天皇十六年九月辛巳、唐客 裴世清罷り帰る。 即ち復た 小野妹子臣を以て大使と為し、…唐客に副へて遣す。 …其の辞に日く「東天皇、敬しみて西皇帝に白す。 …」と。 西暦608年9月、中国から来た 裴世清が帰国した。 そこでもう一度、 小野妹子を大使として、…これにそえて派遣することになった。 …妹子が持って行った国書には、「東の天皇から西の皇帝に手紙を差し上げます。 …」とあった。 このとき小野妹子と一緒に隋に渡ったのが 高向玄理(たかむこのげんり)と 僧旻(そうみん)、 南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の3人です。 のちに帰国し、国政改革に影響を与えます。 飛鳥文化 飛鳥文化は、聖徳太子や蘇我馬子を中核とするヤマト政権が、仏教を保護し信仰をすすめたことから、都のおかれた飛鳥地方で、天皇や豪族を中心としたわが国最初の仏教文化である飛鳥文化が栄えました。 推古朝の前後を指します。 特に、仏教の伝来が、どう日本の政治や社会・文化に与えたかについてはしっかり押さえておきましょう。 仏教の影響ですね。 豪族達も氏寺を建立し始めます。 建立した豪族や人物まで覚えておきましょう。 飛鳥寺(法興寺)…596年に蘇我馬子の命で建てられる。 日本最初の寺。 礎石の上に柱を立て、屋根に瓦を葺いた本格的な寺院。 のちに平城京に移って元興寺と名称が変わります。 法隆寺(斑鳩寺)…現存する世界最古の木造建築で、聖徳太子によって建立。 国際色豊かなエンタシスの柱が特徴。 若草伽藍跡が見つかったことで、法隆寺再建説浮上。 四天王寺…聖徳太子が、物部守屋と蘇我馬子の合戦を祈って建立。 広隆寺…秦氏が聖徳太子から賜った仏像を安置したことで始まる。 中宮寺…聖徳太子が母親の住居を、その死後に寺にしたもの。 百済大寺…舒明天皇の命により建立、。 のちに大官大寺、平城京の大安寺に名称が変わります。 法隆寺金堂・五重塔…世界最古の木造建築物。 重厚でどっしりとしたつくりが特徴。 飛鳥時代の仏像 南北朝時代の影響を受けています。 北魏様式は「厳しく、整った」表情、南梁様式は「柔和でやわらかな」表情がポイントです。 法隆寺金堂釈迦三尊像…北魏様式で製作者は鞍作鳥(止利仏師)、金銅象で座像• 法隆寺夢殿救世観音像…北魏様式、木像で立像、宝珠を持っている• 法隆寺百済観音像…南陵様式、木造で立像、水瓶を持っている• 中宮寺半跏思惟像…南陵様式、木造、頭に宝珠を乗せている• 広隆寺半跏思惟像…南陵様式、木造、宝冠をかぶっている• 飛鳥寺釈迦如来像…北魏様式で鞍作鳥(止利仏師)作、現存最古の仏像 飛鳥時代の絵画・工芸 高句麗の僧である 曇徴が紙、絵の具を伝え、絵画・工芸も発達。 代表的なものは、次の2つです。 法隆寺玉虫厨子…「捨身飼虎図」が描かれている。 中宮寺天寿国繍帳…「天寿国曼荼羅」とも呼ばれる。 飛鳥時代の書物 厩戸王(聖徳太子)が記した仏教の注釈書「 三経義疏」三経とは法華経(ほっけきょう)勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経(ゆいまきょう)を指します。 厩戸王(聖徳太子)に仏教を教えたのが 高句麗の僧である 恵慈(えじ)であることも覚えておきましょう。 百済の僧観である 観勒が暦法・天文を伝えたこともおさえておきましょう。 仏教の伝来 仏教の伝来は古墳文化で学習しました。 もう一度復習しておきましょう。 『扶桑略記』仏教私伝 第廿七代継体天皇即位十六年壬寅、大唐の漢人案部村 司馬達人、此の年春二月に入朝す。 即ち草堂を大和国高市郡坂田原に結びて、本尊を安置し、帰依礼拝す。 世を挙げて皆云ふ、「是れ大唐の神なり」と。 継体天皇の16年、中国からやってきた 司馬達人がヤマト政権に使えることとなり、小さなお堂を大和国高市郡の坂田原に建て、仏像を安置して礼拝した。 これを見た人々は「あれは中国の神」を拝んでいるのだと言った。 この司馬達人の孫が 鞍作鳥(くらつくりのとり)だとされています。 鞍作鳥は 止利仏師(とりぶっし)とも呼ばれます。 飛鳥文化を代表する、法隆寺金堂釈迦三尊像の作者です。 (6)この時期には渡来人や遣隋使などで多くの文化が日本に伝わった。 (6)この時期には渡来人や遣隋使などで多くの文化が日本に伝わった。

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飛鳥寺と飛鳥大仏、日本最古の大仏が鎮座する、かつての日本の中心地を訪れる歴史旅

飛鳥文化 仏像 特徴

なぜ飛鳥? その名の通り、飛鳥時代は現在の奈良県明日香村周辺の「飛鳥」と呼ばれる地域を中心に仏教をの影響を受けた文化が栄えました。 どうして数ある土地の中から飛鳥が都になったかについては諸説はありますが、蘇我氏の本拠地があったことと関係しているといわれています。 推古天皇が即位したころは、ヤマト政権の政治形態から律令に基づく朝廷の政治形態への過渡期でした。 そのため、ヤマト政権に見られるような大王と有力豪族の連合政権的性格が強く、大王とそれを支持する豪族はにこいちで活動していました。 ゆえに、推古天皇を支持する蘇我氏の本拠地である飛鳥に天皇の宮が置かれたといわれています。 そこに様々な施設や人々がくっついて都を形成していきました。 飛鳥文化の特徴 1.氏寺をはじめとする仏教寺院 飛鳥文化の担い手となったのは天皇や豪族などの権力のある人たちでした。 その代表的な例が、古墳に代わって氏寺を建てるようになったことです。 それまで古墳の大きさが権威の象徴でしたが、当時の最先端の仏教寺院を建てることが権威の象徴へと変わったのです。 主な氏寺は、蘇我氏の飛鳥寺や舒明天皇の百済大寺、厩戸王の四天王寺、法隆寺などがあります。 また、氏寺の建築様式はそれまでとは異なりました。 それまでは竪穴式住居や高床式倉庫のように地面に柱を突き刺して建てる掘立柱建物がメインでした。 しかし氏寺は礎石というのを用いて建立されました。 これは地面に柱を突き刺すのではなく、地中に埋めた礎石という石の上に直接柱を立てる方法です。 大陸から伝わりました。 ただ、がっちり地面と固定するのではなく石の凹凸に合わせて木を削って上に乗っけるだけでした。 もろく見えますが屋根には瓦を使うので重さである程度固定され、地震の際には揺れることで倒れないつくりになっています。 2.二つの様式の仏像 氏寺が建立されたということは、安置する仏像が必要になります。 というわけで、仏像の製造も盛んになりました。 この頃の仏像には北魏様と南梁様の2つの様式がありました。 どちらも中国から伝播しました。 北魏様の特徴は、 杏仁形 あんにんぎょうの目と 仰月形 ぎょうげっけいの口です。 杏仁形の目とは上下同じような弧で表現された目のことです。 仰月形の口とは三日月を逆さにしたような形の口で、口角が上がっています。 このため北魏様の仏像は力強いような端正な顔立ちをしています。 クールな印象です。 下の絵のような感じです。 (字が汚いのはスルーで。 )ぜひ資料集などで見てみてください。 北魏様の仏像を作った仏師で有名なのが 鞍作鳥 くらつくりのとりです。 止利仏師とも呼ばれます。 彼は渡来系の人で下の絵で紹介している釈迦三尊像を作りました。 南梁様はこれと対照的に柔らかく丸みのある感じです。 服も流れるように緩やかな表現であらわされています。 代表的なのは弥勒菩薩半跏思惟像です。 北魏様に比べて柔らかく女性的な表情をしています。 ちなみに仏には性別はないそうです。 この2つの様式ともに、口角の上がったにこやかな表情をしています。 この表情をアルカイックスマイルといいます。 日本語では 古拙 こせつの 微笑 えみというそうです。 アルカイックスマイルはギリシャのアルカイック美術に見られる技法で幸福感を表すといわれています。 しかし、これらの仏像のそれとは関連がないとされています。 これは想像ですが、すべてを包み込み、幸福感を与えるような仏のおおらかな表情を追求した結果、自ずとやんわりとした微笑になったのではないでしょうか。 人類共通の感覚というやつでしょうか。 3.中国と朝鮮の影響 飛鳥文化の最たる特徴は、中国の文化、朝鮮の文化の影響をダイレクトに受けていることです。 他にもシルクロード由来で中国に伝わったギリシャ建築の様式も法隆寺に見られたりします。 (そう考えるとアルカイックスマイルとの関連もありそうな気もします。 ) 朝鮮からは2人の僧がある重要なものを日本に持ってきてくれました。 1人は百済の 観勒 かんろくという僧です。 彼は暦法を持ってきてくれました。 もう1人は高句麗の 曇徴 どんちょうという僧です。 彼は絵の具、紙、墨のつくり方を伝えてくれました。 これにより、日本の大陸文化の共有も進んでいきました。 その他、ササン朝ペルシャの工芸品に見られる獅子狩文様という絵柄が法隆寺の四騎獅子狩文様錦という布の作品にみられたり、忍冬唐草文様というギリシャで用いられた植物の模様が中国、朝鮮を経て、多少の変更が加えられて法隆寺の装飾にみられたりします。 その他の代表的な作品 上に挙げたほかに有名な作品を紹介したいと思います。 まず、言うまでもなくみんな知っているであろう玉虫厨子です。 その名の通りタマムシの羽が装飾に使われているためこう呼ばれています。 タマムシは虹色に輝くきれいな羽を持つ昆虫で、東南アジアのどこかの国では今でもアクセサリーなどに使われているようです。 厨子というのは仏像を納めて安置する、仏像の家のようなものです。 (仏教版シルバニアファミリーみたいなもんです。 ) 厨子の側面には「捨身飼虎図」というのが描かれています。 これは釈迦が前世に王子であったときに、森で飢えに苦しむ虎の親子を見て自身の身を虎に与えて救ったという伝説に基づいた作品です。 ぜひ写真を資料集などでご覧ください。 つづいて、天寿国繍帳というものです。 これは聖徳太子の死後に、妃であった 橘大郎女 たちばなのいらつめという人が発案して作られたタペストリーのようなものです。 日本最古の刺繍ともいわれています。 天寿国というのは天国のことで、聖徳太子が亡くなったのちに、橘大郎女が聖徳太子の逝ったとされる天寿国を見たいということで、絵をかかせ、それを刺繍させて作られました。 作品の中には聖徳太子の「世間虚仮 唯仏是真」という言葉が刺繍されています。 これは世の中は仮の世で、仏だけがまことのものであるという意味で、仏教の教えに基づいた政策を行っていた聖徳太子らしい言葉だといえます。 これもぜひ、資料集などでご覧ください。 今回は飛鳥文化の解説でしたが、大変申し訳ないことに作品の画像が著作権の関係で掲載することができませんでした。 おそらく今後の記事も画像を載せるのは困難なので随時イラストなどで紹介したいと思います。 文化史は目で見て楽しみ、理解するものです。 ぜひ画像検索や資料集、博物館のサイトなどを活用して、作品をご自分の目でご覧いただきたいと思います。

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