ウル 第 三 王朝。 ウルク (メソポタミア)

ウル第三王朝とは

ウル 第 三 王朝

これから幾つかの記事に亘ってウル第三王朝について書くが、最初に概要を書いておこう。 年表 前2112年 ウルナンムがウルで独立し、ウル第三王朝成立。 前2094年 二代目シュルギ即位。 前2074年 王朝の最盛期。 前2028年 五代目そして最後の王イビ・シン即位。 即位して間もなく目に見える形で王朝の崩壊が始まる。 前2017年 イシュビ・エラがイシンで独立(イシン第一王朝)。 前2004年 人が最後のイビ・シンをアンシャンに連行。 王朝滅亡。 文書行政システムと二元支配体制 おそらく前21世紀の末、ウルにおいてウル・ナンムが即位して、ウル第三王朝がはじまった。 王は5人、彼らの治世期間はあわせて100年程度にすぎないが、この時期は前3000年にわたるの歴史のなかでもきわだっている。 この時期に公的機関の文書行政システムが極端なまでに整えられ、驚くほど精密な記録が大量に作成されたからである。 [中略] ウル第三王朝時代の繁栄は、二代王シュルギ治世の後半で頂点に達した。 彼は外征をくりかえし、周辺の諸国家にウル王朝への臣従、を誓わせ、いっぽう中心部(シュメール・地域)の都市には知事を派遣して直接支配を行った。 中心地域の都市には、シュメールのエンリルの神殿での輪番奉仕を義務づけ、いっぽう中心地域の北方、ディヤラ川から上・下ザブ川地域にかけては軍団による軍事支配を実現した。 ウル第三王朝の支配は中核と周辺という二分法にもとづいていた。 王権は、中心地域では伝統的な都市組織を利用しつつ、灌漑にもとづく農業生産を行わせて、その余剰を吸いあげた。 いっぽう周辺地域からは、大量の家畜を中心地域には込みこませたのである。 前田徹「の王・神・世界観」(2003年)より転載。 前田は、ウル王朝が、ディヤラ流域地方を軍事力によって統治したことを強調している。 出典:編著/図説/(ふくろうの本)/2011/p42-43• ディヤラ川流域は東方から地方への侵入点の一つ。 ウル第三王朝は東地中海沿岸からにいたる広い地域をに組み込んだが、その支配は均一ではなかった。 中核となるのはシュメル・の地であった。 だがウル市の王朝にしたがうとはいえ、各都市の独立志向は根強かった。 エンリルを祀ることでなんとか統一を維持していたが、すでに第2章で紹介したように市など諸都市はウル市とはちがう月名を使用していた。 シュメル・の外側には貢物を持って来る服属国があり、西方ではマリやエブラ、東方ではマルハシやアンシャンなどがにやって来ていた。 さらにその外側の、人の侵入経路であったティグリス河東岸地域、ディヤラ河および大小ザブ河流域は軍事的に重要視された地域であった。 ウル第三王朝は約100年と短期間であったが、第二代シュルギ王治世後半以降に膨大な数の行済文書が記録された。 各地から出土していて、丸剤約四万枚が公刊されているが、まだ多数の文書が未解読のままである。 出典:/シュメル//2005/p252-253 ウルのジッグラト ウルのジッグラト復元図。 三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所があった。 基幹構造は日乾煉瓦、外壁は瀝青で仕上げられていた。 出典:ジッグラト<• 「ジッグラト」については 記事「テル(遺丘)とジッグラト」の第二節「」に書いた。 ウル遺跡に残るジグラトは、すでに初期王朝時代に建立されていたが、ウル第三王朝初代ウルナンム王が修復、拡大した。 このジグラトはエテメンニグル(「畏怖をもたらす基礎の家」の意味)と名づけられていた。 このジッグラトはイラン・フーゼスターン州にあるチョガ・ザンビールのジッグラトに次いで最も保存状態が良いもの。 ジッグラトの中でおそらく最も参照され、最も著名なものである(チョガ・ザンビールのほうはではなく、人により建築されたから参照されないのかもしれない)。 以下は「Ziggurat of Ur<英語版」と「エ・テメン・ニグル<(日本語版)」に依る。 ウルのジッグラトは元々ウルの都市神ナンナ(月神//エンリルの長子によると、三層より成るジッグラトだったが、最下層はウル第三王朝時代で、2-3層は紀元前6世紀(ナボニドゥス王治世)の建築だった。 治世に、最下層の、階段が改築 上述のチョガ・ザンビールは1979年に、のに登録されたが、ウルのジッグラトはされていない。 上記のように後から手が加えられたからかもしれない。 ウル・ナンム法典 ウル・ナンム法典(ウル・ナンムほうてん)は、のウル第三王朝・初代王ウル・ナンムによって発布された法典。 紀元前1750年頃のものとされるよりおよそ350年程度古く、影響を与えたと考えられる、(現存する)世界最古の法典とされる。 [中略] 後世のの特徴が「目には目を、歯に歯を」の一節で知られる同害復讐法であるのとは異なり、ウル・ナンム法典では損害賠償に重点が置かれている。 殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・農地の荒廃などについての刑罰が規定されており、特に、殺人・強盗・強姦・姦通は極刑に値する罪と見なされた。 シュメルには鋳造貨幣(コイン)はなかったため、損害賠償は銀の秤量貨幣によって行われた。 [後略] 出典:ウル・ナンム法典< ウル第三王朝版「」 ウル第三王朝の滅亡は早かった。 ジグラトどころではなくなり、代わって城壁を造らざるをえなくなった。 シュメル版「」の建造である。 [中略] マルトゥ、つまりアモリ人の侵入が勢いを増し、現代の北方80キロメートルの所にユーフラテス河からティグリス河へと、防御のための城壁を築いて侵入を阻止しなければならなくなった。 これがシュメル版「」である。 城壁建設は第ニ代シュルギ王(前2094-2047年頃)の治世に始まっていて、前で話したように治世37年の「年名」は「国の城壁が建てられた年」であった。 [中略] また、第四代シュ・シン王(前2037-2029年頃)の治世4年の「年名」も城壁建造であったことはすでに第6章で紹介した。 出典:シュメル/p263-265 王朝最後の王、第五代イッビ・シン王に至っては治世6年の年名は「とウルの大いなる城壁を造った年」。 もはや中心部(シュメール・地域)の統治も出来ない状況が示されている。 ウルの滅亡 周辺地域および地方の統治機能の崩壊 市(・シュメール両地域の境界あたりの都市)の近くに、第ニ代プズリシュ・ダガン王はプズリシュ・ダガンという街を建設した。 ここは周辺地域からの家畜群の集積管理センターだった。 この重要な場所がイッビ・シン王治世2年末に早くも機能しなくなった。 市の最後の行政・経済文書は治世5年、ギルス(ラガシュ)市は6年で途絶える。 (世界の歴史1 人類の起原と//1998/p197-198(氏の執筆部分) ) Map of the main cities of Lower Mesopotamia during the Akkad and Ur III periods c. 2300-2000 BC , with the approximate course of the rivers and the ancient shoreline of the Gulf. 出典:Bala taxation<英語版 シュメール地方の統治機能崩壊 ウル第三王朝時代にはシュメル地方では土壌の塩化が進み、大麦の収量倍率が激減していた。 初期王朝時代末期(前24世紀中頃)にはラガシュ市において76. 1倍であったものが、前21世紀のウル第三王朝の属州ギルス(以前のラガシュ市)では30倍に減少していた。 この数字はシュメル地方のほかの地域でもそうちがわなかったと考えられる。 第五代イッビ・シン王(前2028-2004年頃)の治世になると、東方からは人、西方からはマルトゥ人(アモリ人)と外敵の脅威が増し、しかも同王の治世6年にウル市で発生したは数年続いて、価格が60倍にも高騰した。 出典:シュメル/p265-266• アモリ人とはアムル人のこと。 イシン市の独立 イシン市はの西南にある都市。 上述の危機的な食糧不足の状況で、イッビ・シン王は、マリ市出身のアムル人イシュビ・エラ将軍をイシン市へ派遣した。 しかし、この将軍は滅びゆく王朝を見限りイシン市で独立した(前2017年)。 イシン第1王朝の誕生である。 ウル第三王朝滅亡の前にイシン・ラルサ時代が始まっていた。 (イビ・シン<) の侵攻(王朝滅亡) ウル第三王朝を滅ぼしたのはだった。 人はウル市に侵入してイッビ・シン王を捕らえてアンシャンへ連れ去った(前2004年)。 イッビ・シン王がその後どうなったのかは誰も知らない。 シュメール文明の終わりと継承 シュメル人の統一王朝にして最後のウル第三王朝(前2112-2004年頃)は前2004年頃にの侵入によって滅亡したが、シュメル人はその後も行き続けていた。 だが、シュメル人は古くから共生していた人に加えて、アモリ人(マルトゥ人)が侵入したことによっての圧倒的文化のなかに埋没せざるをえなかった。 出典:シュメル/p274 ウル第三王朝の後継を自認したイシンのイシュビ・エラ王はシュメール語による王碑文を遺したが、日常の言語はシュメール語からに変わった。 ただし、シュメールの文化がここで途絶えたわけではない。 特にが作り上げた神々と神話は神話に受け継がれ、を越えてと地中海(、ローマ)へと伝わった。 シュメール文明について『シュメル』のはしがきでは「シュメル社会は会の原点である。 当時すでに文明社会の諸制度がほぼ整備されていた」とあり、あとがきでは「起きるべきほどのことはすでにシュメル社会では起きていた」と書いてある。 名称 この王朝の名称は「ウル第三王朝」だが、古代またはの年表には「第一」や「第ニ」は出てこない。 「ウル第三王朝」の名称は、シュメール王名表に依る。 シュメール王名表についてはと記事「」で書いた。 シュメール王名表は史実とフィクションが入り混じっていて正確ではない。 「ウル第一王朝」には実在する王が書かれているが、そうだとしても「一の王」でしかない。 「ウル第ニ王朝」に載っている王の名は遺物などで確認できないし、年代的はの王に支配されている時期だ(初期史の研究/p125)。 このようにこの名称は史実に基づかないが、慣例によりこの名称は使い続けられている。 ウル第三王朝はシュメール文明の最後の王朝にしてシュメール文明の集大成というべき王朝だと思うが、世界史関連の本やサイトでは注目されていない。 次回から、個々の事象について書いていく。 : 世界の歴史1 人類の起原と//1998年/p547-548(第1巻関連年表) : 作者:wikiwikiyarou(パブリック・)、ダウンロード先: : 日本語版は英語版をまとめたもの : 前田徹著『初期史の研究』(出版部/2017/p126)によれば、ナンナ神の系譜をエンリルの長子にしたのはウルナンムである ) )のためのもの。 紀元前6世紀、最後の王ナボニドゥスにより改修された。 1939年のレオナード・ウーリーの発掘レポート Woolley, C. Leonard 1939. The Ziggurat and its Surroundings. Ur Excavations. : この記事は『シュメル』(p158-162 に依っている : 前田徹/初期史の研究/出版部/2017/p189 : 著作者:Zunkir、ダウンロード先: rekisi2100.

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ウル 第 三 王朝

この都市文明の担い手となった人々をシュメール人と呼ぶ。 シュメール語と呼ばれる膠着語を話し、楔形文字を生み出して様々な記録を残した。 シュメール人の文明は、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルク、ウルなどの都市国家が覇を競った初期王朝時代(前2900年頃~2335年)、アッカド人のサルゴン王に始まるアッカド王朝時代(前2334年~前2112年頃)、シュメール人による統一王朝ウル第3王朝時代(前2112年~前2004年)の三期にわかれ(注2)、ウル第3王朝の滅亡以後、シュメール人は歴史に現れなくなる。 『なお、我が国では「シュメル」ではなく、「シュメール」と「長音記号」を入れて表記されることが多いが、これには理由がある。 第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した。 そこで、我が国におけるシュメル学の先達であった中原与茂九郎先生(京都大学名誉教授)が混同されないように音引きを入れて、「シュメール」と表記された。 』(はじめにより) 特に古代オリエント史における固有名詞の和訳の問題については小川英雄著『古代オリエントの歴史』でも死語も多い古代語でセム語系や印欧語系を始め多くの言語とも関係している点で、『一定のシステムで音写の仕方を統一することは不可能』(注1)であるため、『古代オリエント史の多くの書物の間にはいろいろな不統一がある』(注1)と指摘している。 以上の指摘を踏まえつつ、本記事では日本オリエント学会編『古代オリエント事典』および『』(東洋書林 , 2004年)の項目も「シュメール」表記であることや現状の教科書等の表記に準じて「シュメール」として進める。 ウバイド文化とウルク文化 紀元前5000年頃、ティグリス川上流域、中部メソポタミアの沖積平野に栄えたサマラ文化の影響下でメソポタミア南部、ティグリス川・ユーフラテス川下流域に進出した農耕民によって築かれたウバイド文化は、ウバイド遺跡やエリドゥ遺跡など大規模な村落を作り、灌漑農耕の本格的な導入や放牧・漁業・狩猟、彩文土器の製作、周辺との交易など、前3500頃まで長い繁栄を誇った。 続いてウルク期(前3500~前3100年頃)、農業生産力の向上を背景として都市国家が登場する。 その中心となったのがウルクである。 ウバイド文化期後期からエリドゥなどで登場した神殿は、ウルクで巨大化し、巨大神殿を中心とした都市が生まれる。 ウルク後期に楔形文字を使った粘土板への記録システムとこれを使った行政機構が生まれ、人口の集中、支配階級と職業の分化や、独特の芸術様式など、都市文明が誕生する。 続くジュムデト・ナスル期(前3100年頃~前2900年頃)にかけて、ウルクの都市文明は周辺に波及して都市国家が次々と誕生していった。 初期王朝時代(前2900年頃~前2335年頃) 初期王朝時代は前のジュムデト・ナスル期にメソポタミアに広がったシュメール人都市国家がセム系アッカド人のサルゴン王によって統一されるまでの約600年に渡って分立し抗争する覇権争いの時代である。 初期王朝時代は考古学的にさらに以下のように四分類される。 第I期(前2900~2750年頃) 第II期(前2750~2600年頃) 第III A期(前2600~2500年頃) 第III B期(前2500~2335年頃) この分類は、『バグダードの北東のディヤラ川流域にあるテル・アスマル(Tell Asmar)及びカファジェ(Khafaje)の発掘調査からの層位的証拠を基盤にして樹立されたもの』で、『南メソポタミアでも、そのような時期細分を採用し、ディヤラ地域との遺物の比較によってそれぞれの遺跡の層位の時期決定を行うようになっていった』(注3)ものだが、ディヤラ地域以外でII期にあたる土器が出土していないことからII期とせずI期前期・後期と分けることもある。 また、第III B期の下限は現状アッカド王朝の成立に求められているが、その一方で、第III B期にあたる土器類がアッカド王朝期にも使われ続けている可能性が高く、この編年は引き続き見直され続けている。 (注4) 「シュメール王朝表」 「シュメール王朝表」 (wikimedia commonsより) 「シュメール王朝表」(注5)はウル第三王朝時代に成立したと考えられている有力都市の歴代の王とその統治期間を粘土板に記録した文書である。 王朝表によれば最初に王権がエリドゥに下ったあと五都市八人の王で24万1200年の統治が行われ、その後、大洪水が起きてすべてを押し流した後、都市国家キシュに王権があたえられ、以後ウルクを経て最後のウル第3王朝、イシン王朝まで多くの都市国家へ王権が移ったことが描かれている。 初期の王たちに異常に長い統治期間が与えられていること、記録されている王たちも実在の不確かな者が多いこと、実際には並立していた諸都市が順番に王権を継承したように描かれていることなど問題点は多いが、『北部(とりわけキシュ)からウルクへ、そしてウルへという王権文書を記述することがこの文書の主目的』(注6)と捉えられ、初期王朝時代の都市国家の興亡を辿る上で参照される有力史料のひとつとなっている。 地域国家の分立から統一へ 「ウルのスタンダード」(前2600年頃) 初期王朝時代前半はほとんど史料が無くよくわかっていない。 「シュメール王朝表」に従うなら、I期はアッカド地方の都市国家キシュを中心としたキシュ第一王朝が栄え、II期のころにウルクに王権が移ってエンメルカル王やギルガメシュ王といった神話・伝承の主人公たちによるウルク第一王朝が、III A期にはウル第一王朝が始まったと思われる。 この頃に築かれた「王墓」が1924~32年の発掘で見つかっている。 ある程度都市国家の興亡が見えて来るようになるのが前2500年以降、初期王朝第III B期のことである。 この頃、メソポタミア南部における諸都市国家の抗争の中でキシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルクの七都市が台頭して他の都市を従属させて地域国家化するようになった。 後にウル第三王朝を興すウルは七都市に次ぐ都市だがウルクに従属していた。 七都市の抗争と合従連衡の中で宗主権的地位を占める都市の王は「キシュ市の王」という称号を名乗った。 『この王号は、地上の支配権に与る最高神エンリルではなく、戦闘の女神イナンナから授与されており、直接的には領域支配を明示する王号ではなく、覇権を争う諸王の中で他を圧する武力に秀でた王であることを示すに過ぎない。 』(注7) 「キシュ市の王」は象徴的なもので実際にキシュ市を支配したとは限らない。 「国土の王」ルガルザゲシのシュメール統一 この覇権争いの中でウルク王エンシャクシュアンナが主導権を握るが、前2370年頃にウンマ王となったルガルザゲシ王はラガシュを滅ぼしウルクを征服してウルク王に即位、前ウルク王エンシャクシュアンナが称した王号「国土の王」を受け継いでシュメール諸都市の統一に成功した。 メソポタミア統一王権成立へ向けた動きが始まるが、ルガルザゲシ王はキシュの北で勢力を拡大するアッカド王サルゴンと激しく争い、ついにルガルザゲシ王はサルゴン王に敗れ、シュメール人による初期王朝時代は終わり、アッカド王によるメソポタミアの統一王権が誕生する。 アッカド王朝時代(前2334年~前2112年頃) セム人の登場 後に西アジア一帯で大勢を占めるセム系言語を話す人々(セム語派)は前3000年紀頃から南メソポタミアの北部地方に定住するようになり、キシュ市一帯に勢力を誇った。 彼らはセム語派に属するアッカド語を話しアッカド人と呼ばれた。 初期王朝時代から有力都市として知られたキシュはアッカド人によって支配されており、その近くにアッカド市があったと伝わるが、現在までその遺跡は見つかっていない。 「全土の王」サルゴンと「四方世界の王」ナラム・シン ナラム・シン王の肖像 キシュ王ウルザババに仕えていたサルゴンはキシュ王から独立してアッカド市を中心とした王権を確立、キシュ王位を簒奪すると、シュメール地方を統一したルガルザゲシ王と激しく争った。 サルゴン王は5400人の直属常備軍を編成すると、三十四回に渡る戦闘でシュメール諸都市を次々と陥落させ、前2335年、ウルクを包囲してルガルザゲシ王を捕虜として、ついにメソポタミアの統一に成功する。 サルゴン王は「全土の王」を称して、アッカド王朝を創始した。 アッカド王朝は四代目ナラム・シン王(在位:前2254~2218年頃?)の時代に最大版図を実現して最盛期を迎えた。 周辺諸族へ軍を派遣して征服、「四方世界の王」を称するとともに、自らを神格化して「アッカドの神」を名乗った。 当時の行政文書では彼の名は神を表すサイン(ディンギル)がつけられている。 ナラム・シン王は「四方世界の王」とあわせて「アッカドの王」を名乗ったが、この点からナラム・シン王治世下でニップル以北、キシュ市の近くにあったと考えられている王都アッカド市を中心としたアッカド地方とニップル以南のシュメール地方という二つの地理概念が生まれたと考えられている。 (注8)後にウル第三王朝を開いたウル・ナンム王は「シュメールとアッカドの王」を名乗っている。 アッカド王朝の衰退と滅亡 アッカド王朝五代シャルカリ・シャリ王の治世以降、王朝表は「だれが王であり、だれが王でなかったか」と、王の権威の失墜を記録する。 以後ウルクやメソポタミア南部を支配したグティウム族(グティ人)の王朝、グデア王などに代表されるラガシュ王朝が繁栄するなど複数の独立王朝が並立、アッカド王朝はサルゴン王以来十一人の王で181年続いて滅亡した。 この衰退期の独立王朝については年代を比定することが困難である。 ウル第3王朝時代(前2112年~前2004年) ウル第3王朝の支配領域 前田徹著『メソポタミアの王・神・世界観』(山川出版社,2003年,82頁の図より転載) アッカド王朝時代末期、メソポタミア南部に侵入して長期王朝を立てたグティウム族を、前2100年代、ウルク王ウトゥ・ヘガルが撃退してメソポタミア南部の支配権を確立する。 アッカド王朝はこの頃には王権は絶えていたか著しく衰退していたと思われる。 アッカド王朝の混乱期からウル第3王朝成立までの期間がどの程度の長さであったかは諸説あり、アッカド王朝の弱体化の中で勢力を誇ったラガシュ王朝のグデア王がいつ頃在位していたのかについても、アッカド王朝時代からウル第3王朝期まで幅がある。 初代ウル・ナンム王と最古の法典 前2112年、ウトゥ・ヘガル王の武将または一族であったウル・ナンムが独立してウル王となりメソポタミア南部の政治的混乱を収拾してシュメール人初の統一王朝ウル第3王朝が成立した。 ウル・ナンム王(在位:前2112~2095年頃)はアッカド歴代の王が名乗った「四方世界の王」ではなく「シュメールとアッカドの王」を称したが、二代目シュルギ王からは「四方世界の王」をあらためて名乗った。 現存する最古の法典がウル・ナンム王治世下でまとめられたと考えられているウル・ナンム法典である。 ニップル、ウルなどで出土した断片などあわせて序文と30の条文からなり、殺人や暴行・強姦などに関する条項や結婚・離婚・不倫、奴隷の扱い、神明裁判の手続きなどが取り決められている。 後世のハンムラビ法典と反対に同害復讐法を取らず、傷害罪には賠償金を支払うことが定められている点が特筆される。 シュルギ王の治世と行政機構の整備 ウル第3王朝は二代目のシュルギ王(在位:前2094~2047年)の時代に最盛期を迎える。 48年の長きに渡り王位にあり、在位20年頃から盛んに外征に乗り出して周辺諸国を臣従させ、内政改革を断行して行政機構を確立し、文書形式を整え、度量衡の統一や学校の設立などの成果で、英君として知られる。 シュルギ王以降の歴代王は皆神格化されている。 『ウル第3王朝の支配は中核と周辺という二文法にもとづいていた。 王権は、中心地域では伝統的な都市組織を利用しつつ、灌漑にもとづく農業生産を行わせて、その余剰を吸いあげた。 いっぽう周辺地域からは、大量の家畜を中心地域に運びこませたのである。 』(注9) このような支配体制を効率的に運用するために、シュルギ王の時代に文書行政が発展した。 現在発見されているウル第3王朝時代の粘土板のほとんどは行財政文書でおよそ四万点の公文書が刊行されている。 裁判文書や契約文書の書式が定型化され、「王の名において誓う」という文言が定まった。 シュルギ王は属州で大規模な検地を実施して耕地を一定の広さに分割して耕作させ、租税と再分配のシステムを確立、諸都市支配者に管理させた。 また主要都市に最高神エンリルの神殿への奉仕義務や中央政府の役人・軍への食糧補給体制の整備も課している。 ウル第3王朝の滅亡 シュルギ王のあとを継いだアマル・シン王(在位:前2046~2038年)は貴族層の財産没収を繰り返すなど集権化を進めたが、兄弟のシュ・シンと王位を争い、わずか九年の治世で亡くなった。 後世、無能と批判される。 第四代シュ・シン王(在位:前2037~2029年)の時代にはフリ人、アムル人、エラム人ら周辺諸国からの圧力が増して彼らの軍事的侵攻や移民としての流入、それにともなう国内反乱の対応に追われた。 第五代イッビ・シン王(在位:前2028~2004年)の時代になると、ウル・ナンム王、シュルギ王が整えた行政機構が機能しなくなり、現在出土している行政文書は治世五年目で途絶えている。 治世六年目には大飢饉が発生するなど国内は混乱。 将軍として登用したマリ出身のアムル人イシュビ・エッラが反乱を起こして独立、イシン王朝を立てたことで、イシン王朝、アムル人、エラム人という内憂外患を抱え、前2004年、ついにエラムの攻勢でイッビ・シン王は捕われ、ウル第3王朝は滅亡した。 以後、バビロン第一王朝のハンムラビ王による再統一まで約200年、イシン王朝とそれに続くラルサ王朝を中心にメソポタミアは群雄割拠の時代を迎え、この過程でシュメール人は歴史から消えていった。 参考書籍・論文 ・大貫 良夫 , 前川 和也 , 渡辺 和子 , 屋形 禎亮 著『』(中央公論新社,2000年,原著1998年) ・小川英雄著『』(慶應義塾大学出版会,2011年) ・小林登志子著『』(中央公論新社,2005年) ・日本オリエント学会編『』(岩波書店,2004年) ・前川和也編著『』河出書房新社,2011年 ・前田徹著『』(山川出版社,2003年) ・前田徹著『』(早稲田大学出版部,2017年) ・ピョートル・ビエンコウスキ, アラン・ミラード 編集(池田 潤, 山田 恵子, 山田 雅道, 池田 裕, 山田 重郎 翻訳)『』(東洋書林 , 2004年) ・小口裕通「メソポタミア考古学研究の近年の歩み」(西アジア考古学 第9号,2008年,19-25頁) ・前田徹「シュメールにおける地域国家の成立」(早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第4分冊 54, 2008年, 39-54頁) 脚注 注1)小川英雄, 2011年,150頁 注2)三区分の時期については小林登志子, 2005年,18頁 注3)小口,2008年,19頁 注4)小口,2008年,19-22頁 注5)「シュメール王名表」と表記する場合もあるが、前川和也は中原与茂九郎が「シュメール王朝表」と呼んだ趣旨が『諸都市王朝による縁起的な南部メソポタミア支配がこれらのテキストの基本主題』(『人類の起源と古代オリエント』中央公論新社,2009年,原著1998年,187頁)としていたことを紹介しており、本記事でもこの指摘を踏まえて「シュメール王朝表」とした。 注6)日本オリエント学会編『古代オリエント事典』岩波書店,2004年,526頁 注7)前田徹「シュメールにおける地域国家の成立」(早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第4分冊 54, 2008年39-54頁)45頁 注8)前田徹2003年54-55頁,同,2008年,52頁 注9)前川和也『図説メソポタミア文明』河出書房新社,2011年,42頁.

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メソポタミア文明:ウル第三王朝③ 二代目シュルギ

ウル 第 三 王朝

の時代に建てられたジッグラト ウルに人が居住を始めたのは半ばである。 式土器やウバイド時代の墓などが発見されているが、都市が本格的に拡張を始めるのはに入ってからである。 しかしこの時期の建築物は時代に行われた大規模建築によって破壊されたために詳細がよくわからなくなっている。 ウル第1王朝 によればの後に王権はウルに移り ウル第1王朝が成立したという。 王名表ではこの王朝の王は初代のからまでの4人であるとされているが、ウル王墓の発掘によって王名表に記載されていない王が多数存在することがわかっており、メスアンネパダ以前の王も確認されている。 また王権がウルクからウルに移ったとされており、メスアンネパダ以下何人かのウル王は王の称号を用いている(キシュ王という称号についてはの項目を参照)。 しかし、実際に当時のウル王がキシュ市を支配していたかどうかははっきりしない(キシュ王の称号は必ずしもキシュ市を支配下においた王のみが使用していたわけではない)。 メスアンネパダ王の治世はウルクの王と同時代かそう遠くない時代であると推定されており、当時の有力国であったことは確かであるが、他国との勢力関係などははっきりしないことが多い。 バルル王の後、系王朝であるアワン朝が王権を握ったとされている。 ウル第2王朝 ウルク第1王朝の後に成立したとされる ウル第2王朝についてはほとんど何も知られていない。 シュメール王名表の欠損のために歴代王の名前もわかっておらず、また王名表の書版によってはウルク第2王朝よりも先にウル第2王朝が成立したことになっているものもある。 ウル第3王朝.

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