ポルポト。 ポルポト政権とクメールルージュの全容がすべてわかるアプリ

ポルポトの政権の終わりとは?子供医者やドキュメンタリー(映画)、最期や死因について…ポルポト派の狂気、崩壊と現在など

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アプリ「クメールルージュの歴史」 そんなクメールルージュが台頭した民主カンプチア時代をWEB上で学べる 秀逸なアプリを開発された方がいます。 それは、Sopheap Cheaさんという方です。 彼は、プノンペンにあるボパナ視聴覚リソースセンター(Bophana Audiovisual Resource Center)のExecutive Directorです。 Iphoneかアンドロイド端末で、「 Khmer rouge history」と入力して検索してください。 アプリは無料でダウンロードできます。 プログラムを立ち上げるとすぐに、当時の音楽が流れ、各チャプターの選択画面が出てきます。 言語は、クメール語か英語が選択できます。 英語を選択するとよいでしょう。 チャプターは全部で14章。 写真、イラストやビデオを豊富に用い、大変わかりやすく解説されています。 では、各章を紹介します。 第1章 どのようにしてクメールルージュが権力を握ったのか。 クメールルージュが台頭した理由には、欧米諸国のアジア侵略に対抗する勢力と加担する勢力とが入り混じった当時のナショナリズムがありました。 第二次大戦後の政治事情や王室の存在、諸外国のアジア侵略から受けた影響などがご理解いただけます。 第2章 クメールルージュによるプノンペン制圧 1975年4月17日、首都プノンペンは、わずか3日でゴーストタウンになったと言われています。 クメールルージュ軍に制圧された時の様子について、当時の写真や詳しい資料と共に解説しています。 第3章 クメールルージュはどのように毎日の生活を組織したか。 クメールルージュは、民衆を旧人民(地方の農民)と新人民(都会の知識人)というように白黒分けし、組織的に統括した様子がご理解いただけます。 新人民を再教育という名目で、地方に移動させ、強制労働させたのです。 第4章 クメールルージュの方針と思想 クメールルージュの具体的な政策と共に、どのようにして反抗分子を摘発したのかについて書かれています。

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ポルポト|20世紀最大の蛮行,カンボジアの悪夢

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この記事の目次• ポル・ポトとは 共産主義への傾倒 ポル・ポトは、1928年の5月19日に「フランス領インドシナ 現在のベトナム・ラオス・カンボジア 」の「プレク・スバウヴ 現在のカンボジア王国コンポントム州 」に生まれました。 当時のカンボジアのなかでは、裕福なほうに含まれる家庭で、従兄弟が王の側室になるなど、王宮とも関係のある家庭でした。 幼少期は、慣例に従い読み書きを習うため、6年間プノンペンの寺院で暮らし、当時の宗主国だったフランスのパリに留学します。 1949年パリに渡ったポル・ポトは、エリート養成大学のひとつである「フランス国立通信工学校」に入り、2年間の技術課程を学びました。 そして、この留学中にポル・ポトは、共産主義者となり「クメール共産主義グループ」に参加しました クメールとは、クメール人のことで、カンボジアを中心とする東南アジアの民族。 そしてポル・ポトは、内部機関紙に「中国革命」についての記事を寄稿したり、スターリンの共産党をコントロールする手法に感銘を受けたりしました。 こうして、共産主義運動に傾倒していったポル・ポトですが、学業のほうでは、3年連続で試験に失敗し、奨学金を打ち切られたので、1952年の終わり頃にカンボジアへ帰国しました。 政権奪取まで 1954年には、フランスが、仏領インドシナを去ります。 1955年には、カンボジアの国王ノロドム・シハヌークが、王位を父に譲って退位し、自ら首相となるための政治的基盤として「サンクム 人民社会主義共同体 」を、総裁として結成しました。 そしてシハヌーク総裁は、共産主義などの反対勢力を一掃して、1955年に実施された選挙で、議席のすべてを獲得しました。 こうしてシハヌーク体制が続いていましたが、ベトナム戦争によって状況は次第に変化していきます。 1970年3月に、シハヌーク国家元首が、中国訪問している隙をついて、アメリカの支援をうけたロン・ノル将軍が、クーデターを起こし、カンボジア国会でシハヌークの退位を決議させました。 ポル・ポトは、帰国後は国内での共産主義への弾圧から逃れて、活動ををつづけていました。 1965年には北京を訪れた際に、鄧小平や劉少奇などの中国共産党の幹部たちと一緒に仕事をし「カンボジア労働者党」は、中国共産党の支配下に入りました。 1966年には、党名を「カンボジア共産党」に変更しました。 そして、このカンボジア共産党は、のちに「クメール・ルージュ」として知られるようになっていきます。 クメール・ルージュは、共産主義への弾圧が激しい都市部では活動できなかったので、カンボジア東北地方のジャングルに拠点を構え、訓練や指導をおこないました。 この時期は、他の左翼集団と連絡をとるのは容易ではなく、ポル・ポトの1977年の発言によれば「連絡のためには徒歩で行ったり、象の背中に乗って行かねばならず、また、連絡用ルートを遮断した敵を避け続けねばならなかったので、1ヶ月が必要だった」ということです。 ポル・ポトにとっては、こうした状況下で、先ほどのロン・ノル将軍によるクーデターが起こったのです。 カンボジア議会の決議によって、追放されたシハヌーク元国家元首は、とりあえずはそのまま北京に亡命します。 しかし、シハヌークは挽回をはかるために、敵対していたポル・ポトに接触し、共闘関係を築きました。 このときポル・ポトは、元国王の支持を取りつけることで「自らの正当性を主張できる」と考えました。 1970年、ニクソン大統領は、 北ベトナム軍とつながっている カンボジアの共産主義勢力を一掃するために、ロン・ノルのカンボジア軍と協力して、カンボジア東北地方の都市部や農村に、空爆をおこないました。 これにより、インフラは破壊され数十万人が犠牲となり、この空爆開始から1年半で200万人が国内難民となる状況がうまれました。 そしてロン・ノル政権は汚職にまみれていたため、国民のあいだには不満がたまり、クメール・ルージュへの人気が高まっていきます。 こうしてクメール・ルージュは加入者が増えていき、ポル・ポトの勢力拡大につながっていきました。 1973年には「パリ協定 ベトナム戦争終結と平和回復に関する協定 」によって、アメリカ軍がベトナムから撤退しましたが、カンボジア政府軍とクメール・ルージュとの戦いは継続されました。 1975年4月17日、ついにクメール・ルージュは首都プノンペンを占領しました。 ロン・ノルはアメリカへ亡命したのですが、逃げ遅れたロン・ノル政権の閣僚たちは、プノンペン陥落直後に「敵軍掃討委員会」に身柄を拘束され、全員処刑されました。 他にも政治家・高官・警察官・軍人ら700人以上が殺害され、遺体は共同墓地に投げ込まれました。 ポル・ポトはノロドム・シハヌークと「売国奴」としてリストに名を挙げた、少数の人物のみを処刑すると約束していましたが、この約束が守られることはありませんでした。 ポル・ポト政権誕生 クメール・ルージュによるプノンペン占領後すぐは、都市部の住民たちは、ロン・ノル政権を倒したクメール・ルージュを歓迎していました。 しかしクメール・ルージュは、都市部の住民を農村での食糧生産に、強制的につかせるために「アメリカ軍の空爆があるので2、3日だけ首都から退去するように」と伝え、都市居住者を地方の集団農場へ強制移住させました。 農村の住民もそれまでの住宅を奪われ、全人民がサハコー 人民公社 といわれる、幅2メートルから4メートル、長さ3メートルから6メートルの、電気もラジオも水道もない小屋に、男女をわけて強制的に移住させられました。 生存者の証言によりますと、病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても、クメール・ルージュは全く配慮をしなかったそうです。 これは、近代化してきた世界の歴史からみると、とてつもない状況だといえます。 ポル・ポトは、クメール・ルージュが全権掌握し、国名を「民主カンプチア」としたあとも、ジャングルからは出ずに、シハヌークを傀儡政権として操ろうとしますが、シハヌークは、君主制を回復させようとします。 もちろんクメール・ルージュはこれを無視し、ポル・ポトの真意を悟ったシハヌークは、粛清を恐れておとなしくしましたが、王宮に監禁され国家元首の地位も奪われました。 1976年5月13日、ポル・ポトは、民主カンプチアの首相に正式に就任し、徹底的な国家の改造に着手しました。 ポル・ポトは、中国の毛沢東主義の影響をうけ、理論上は、原始時代に存在したとされた仮説にすぎない「原始共産主義社会」を再現させ、資本主義はおろか、都市文明を徹底的に廃絶しようとしました。 民主カンプチアのもと、通貨の廃止、私有財産の没収がおこなわれ、教育や医療も否定され、国立銀行や国家機関は、そのすべてが廃止されました。 さらには「国家無神論」にもとづいて、国家の伝統的宗教 上座部仏教 からキリスト教、イスラム教などのすべての宗教が禁止され、少数民族は存在自体が禁止されました。 家族の形態も解体され、クメール・ルージュの許可がない、自由恋愛や結婚も禁止されました。 このような体制となった、民主カンプチアは、深刻な食糧危機に見舞われます。 都市部の市民を農村部に強制連行し、劣悪な環境下で朝5時から夜10時まで働かせましたが、近代的な機械は、資本主義文明の象徴として使用せず、すべてを手作業でおこないましたので、生産力はたいして見込めませんでした。 さらには、こうして生産された農作物を、海外からの武器の調達資金をえるために輸出しました。 もちろん強制動員させられたのは、農業だけではなく、運河やダムの土木工事などにも、過酷な状況での強制労働がおこなわれました。 こうして民主カンプチアの民は「1日2杯のおかゆ」だけしか許されない食生活と、劣悪な労働環境で、飢餓、栄養失調、過労による死者が続出しました。 ポル・ポトは、このような惨状を目の当たりにし、政策の失敗の原因や、政策そのものを問題とするよりも、カンボジアやクメール・ルージュ内部に、裏切り者やスパイが潜んでいるためであるとして猜疑心を強めていきました。 このような猜疑心は、のちに展開される党内での粛清、カンプチア人民への大量虐殺などの、大きな要因の一つとなります。 加速していく虐殺 民主カンプチアは「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を虐殺していきました。 国民は「新人民」と「旧人民」にわけられ、プノンペン陥落後に、都市から強制移住させられた新参者の「新人民」は、たえず反革命の嫌疑をかけられる一方で、長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は1976年まで共同体で配給を受け、自ら食料を栽培できました。 ポル・ポトを含む、クメール・ルージュの幹部の多くは、高学歴でインテリ出身でしたが、高度な知識や教養は、ポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから、医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告をさせて、別の場所へ連れ去ったあとに殺害しました。 やがて連れ去られた者が、全く帰ってこないことが知れ渡るようになっていくと、教育を受けた者は、事情を察し、無学文盲を装って「命の危機」を逃れようとしましたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害されました。 こうしてプノンペンは、飢餓と疾病、農村への強制連行によって、ゴーストタウンとなった一方で、知識人は見つかれば殺害されました。 ポル・ポトは「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で10代前半の無垢な子供を、重用するようになり、少年兵を操り、子供の医師も存在しました。 1978年12月25日、ベトナムに避難していた、カンボジア人によって構成される「カンプチア救国民族統一戦線」が、ベトナムの援助をうけて、カンボジア国内に侵攻を開始しました。 こうして「カンボジア・ベトナム戦争」が勃発しました。 ポル・ポト政権の「カンプチア革命軍」は、粛清の影響による混乱で指揮系統が崩壊していましたので、わずか2週間で、カンプチア革命軍の兵力は半減させられました。 1979年1月7日、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響の強いヘン・サムリン政権「カンボジア人民共和国」が成立しました。 このあとベトナムは、カンボジアを完全に影響下におき、長期間にわたって、その影響力を保持することになっていきました。 ポル・ポト政権崩壊後 こうして、政権を倒されたポル・ポトとその一派は、タイの国境付近のジャングルへと逃れて、採掘されるルビー売買の利権を元手に、反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けました。 1997年にポル・ポトは、政府との和解交渉を試みた腹心と、その一族を殺害しました。 しかしその後、クメール・ルージュの軍司令官の手によって「裏切り者」として逮捕され、終身禁錮刑 自宅監禁 を宣告されます。 1998年4月15日にポル・ポトは、心臓発作で死去しました。 しかし遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺の可能性もあるといわれています。 そしてポル・ポトの遺体は、兵士によって古タイヤと一緒に焼かれ、そのままその場所に埋められました。 この火葬には、ポル・ポトの後妻と、後妻とのあいだに生まれた1人娘が立ち会いました。 後妻と娘は「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり、父でした」と語ったそうです。 以上でおしまいです。 アジアを代表する虐殺者「ポル・ポト」でしたが、いかがでしたか?.

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【簡単解説】カンボジアの歴史を時系列でわかりやすく1分で解説する【詳細アリ】

ポルポト

生誕 生年月日は不明であるが、カンボジア中部コンポントム州プレクスバウ村の出身で、裕福な農家の子として生まれた。 姉は国王の夫人の一人になり、兄は王宮に関わっていた。 6歳で僧院生活を送っている。 カトリック系の小学校や、ノロドム・シアヌーク中学校に学び、フランス語教育を受けた。 フランス留学 1949-52年、政府の奨学金を得てフランスに留学し、マルクス主義の影響を受け、フランス共産党に入党した。 電気を学びにフランスに渡ったが、文学や政治の書物を好み政治活動にしたため奨学金は打ち切られる。 カンボジアの共産主義の仲間と知り合い、共産主義活動を展開する。 帰国後は、私立の高等中学校の教師になったが、カンボジア共産党に加わってゲリラ活動に入った。 シアヌーク大統領 ベトナム戦争当時、カンボジアの国家元首だったシアヌーク殿下は、冷戦の中で、どちらにも属さない中立政策をとった。 しかし、ベトナムからの侵攻を懸念したシアヌーク大統領は、ベトナム戦争では、アメリカ軍に追われた解放戦線がカンボジア領内に逃げ込むのを認め、カンボジア国内をホーチミン・ルートが通るのも黙認した。 また、カンボジア国内の港に荷揚げされる物資が、国内を通って南ベトナムの解放戦線に届けられることも承認した。 シアヌーク大統領本人は、共産主義を嫌悪していたが、国家の脅威のために妥協せざるを得なかった。 ロン・ノル首相によるクーデター ベトナム戦争で苦戦していたアメリカは、カンボジアが聖域となり、ベトナム解放戦線にとっての安全地帯となっている現状が容認できるものではなかった。 このためアメリカのCIAは、暗躍し、カンボジア政府軍の幹部によるターデターを画策する。 1970年、シアヌーク殿下がモスクワを訪問中に、ロン・ノル首相によるクーデターがおこる。 成功すると、ロン・ノル政権はアメリカと共同で、カンボジア領内にいる北ベトナム軍や解放戦線を攻撃した。 カンプチア民族統一戦線 クーデターにより祖国を追われたシアヌーク殿下は、中国政府の全面支援を得て北京に住み、。 「カンプチア民族統一戦線」を設立。 カンボジア国内で自ら弾圧していたカンボジア共産党と共闘して、反ロン・ノルの統一戦線を結成した。 内戦 カンボジアの農村地帯でのシアヌーク殿下人気を背景に、反ロン・ノルのゲリラ活動は、農民の支持を得て国内で勢力を伸ばした。 また、ポル・ポトが率いるカンボジア共産党と、それを支援する北ベトナム兵が主導した。 アメリカは、アメリカ軍がベトナムから撤退するためには、カンボジア領内にある北ベトナム軍の基地を叩く必要があると判断し、カンボジア東部で爆撃を繰り返した。 アメリカの爆撃で民間人を含む人々が犠牲となり、結果的に犠牲を被った農村の若者たちが、ゲリラ組織に加わるようになりゲリラを増やした。 カンボジアの内戦では50万人が死亡し、100万人を超える難民が生まれました。 難民は首都プノンペンに流れ込み、首都の人口は200万人に膨れ上がったた。 プノンペン陥落 1975年4月17日、カンプチア民族統一戦線の軍隊は、カンボジアの首都プノンペンに突入し、ロン・ノル政権は崩壊した。 アメリカ撤退後、ベトナム戦争を優位にすすめた北ベトナムはカンプチア統一戦線の支援にまわった結果である。 ポル・ポト率いる共産党はカンボジアを掌握することになる。 ポルポトは、首都プノンペンにとどまったロン・ノル政権時代の兵士や政府高官は、直ちに殺害した。 シアヌーク殿下の幽閉 反ロン・ノルの「統一戦線」の「顔」になっていたシアヌーク殿下は、ポル・ポト派にとっては不要となり、1976年4月、シアヌーク殿下は、王宮に幽閉された。 原始共産制 原始共産制とは、原始時代にはこういう共産主義の社会があったのではないかと理論的に想定されている社会のことをいう。 あくまでも想定や仮定の理論。 原始的な人間の社会では、あらゆる生産手段を共有し、生産されたものは平等に分配される社会があったとされた。 ポルポトは原始共産制への回帰を目指した。 生産性が低く、自給自足のため、全員が肉体労働に従事する社会で、貨幣は廃止され、宗教は禁止、寺院は破壊された。 文化大革命 ポル・ポトは、かって中国に滞在していたが、この時期は、毛沢東によるが始まる時期であった。 ポル・ポトは、に大きな影響を受け、毛沢東路線をカンボジアで極限まで推し進めた。 大躍進政策 ポルポトは中国のを模倣し、また極端な形にして農業政策を実践した。 その結果、無策な農業政策、集団農業化、非専門家による無謀な感慨工事、極端な生産目標などのため飢饉は広がり、飢えや労働で多くの市民が死に絶えた。 ポルポト革命 ポルポト革命は悲惨な結果となり、カンボジアは地獄の様子をなした。 知識層の虐殺、農業の崩壊、家族の崩壊、集団生活、こども兵士など、共産主義国の中でも過酷さは特別なものとなった。 知識層(学者、学生、教師、文字の読める者)の虐殺• 農業政策の失敗による飢饉• 親から子どもを取り上げ、共同農場の強制• こども兵士、こども医者、子ども看守• 貨幣の廃止• 宗教の禁止 粛正 ポルポトはの独裁者スターリンと同様、党内や国内に次々に「敵」を作り出し粛清していった。 自分の失策の原因を党内や国内の敵による妨害と疑心暗鬼にかられていた。 カンプチア救国民族統一戦線 カンボジアがベトナムに侵攻すると反撃を開始した。 ポルポトからベトナム逃げ込んだ、元カンボジア軍の将校らがヘン・サムリン議長主導でカンプチア救国民族統一戦線を結成していたが、カンプチア救国民族統一戦線はベトナムに救援を求める形で、1978年12月、「要請を受けた」ベトナム軍兵士10万人が、カンボジアに侵攻した。 ベトナム軍の侵攻 ベトナム軍の本格的な侵攻によりわずか2週間でポルポト政権は崩壊する。 ポル・ポト軍はポル・ポトによる粛清、国民の飢饉飢のため戦争できる状況ではなく、。 むしろ、ベトナム軍に助けを求めた国民が大多数であった。 ここで3年8ヵ月間のポル・ポト政権は終焉し、ポルポトはジャングルへ逃げ込み、ゲリラ戦を展開した。 ヘン・サムリン政権 ベトナムの支援のもと、ヘン・サムリン政権によるカンボジア再建が始まったが、行政機関も破壊され、通貨もなく大変厳しい状況であった。。 ポルポト派の再興 王宮に幽閉していたシアヌーク殿下を中国に避難させ、再び統一戦線民主カンボジア連合政府を組んで、名目上のトップにすえた。 ポルポトによる虐殺を棚上げにして中国とタイは支援に回ることとなる。 中国にとっては、中ソ対立の中でソ連に近いベトナム、タイにとっては、インドシナ半島で勢力拡大するベトナムを抑え込むために、ポル・ポトを利用した。 ポル・ポトは、タイの難民キャンプに逃げ込んだカンボジア難民たちを組織して、軍隊に再編成し、ベトナム軍やヘン・サムリン軍が追ってくれば、タイに逃げ込み、武器と弾薬は、中国に頼るというゲリラ戦を展開した。 中国やタイがポルポトを支援することによって、カンボジア内戦が勃発した。 ベトナムのカンボジア撤退 1989年9月、ベトナム軍はソ連の援助が終わると負担となっていたカンボジアから撤退した。 しかし、このときはヘン・サムリン政権はベトナムの支援を受けて独自に戦える戦力を養成していた。 なお、カンボジアへのベトナム侵攻は、ポル・ポト軍との戦闘で5万人の兵士が死亡した。 カンボジア和平 ベトナムの撤退を受け、カンボジア和平の機運が高まることになる。 国際社会は、直接当事者のカンボジア人に和平を実現する力がないことから、国連が一時カンボジア人から主権を取り上げ、暫定的に統治する方法を模索することになる。

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