明智 光秀 家紋。 【家紋】”是非に及ばず” と言わしめた明智光秀の家紋「水色桔梗」は珍しいカラー紋だった!

明智光秀

明智 光秀 家紋

もくじ• 明智光秀の妻たち ここでは、明智光秀の妻たちについてご紹介していきます。 この方、基本的には側室を持たなかったことでも有名ですね。 最初の正室は、1546年に明智光秀が18歳のときに、千草と結婚して最初の妻にしたというふうに言われています。 しかし、のち死別したという話もありますね。 京都で子供を産んだとか、色んな逸話があって、この辺りはまだ明らかにはなっていないようですよ。 次に、妻木煕子 つまきひろこ と、結婚し、正室としたというのが有名な記録ですね。 この辺りから、史実が見えてくるのでしょうね。 明智光秀の妻:妻木煕子 つまきひろこ の最後とは 明智光秀が天下の謀反人となってしまった時から、世間は明智家の記録を多くは残さないような動きになってしまったようですね。 そして、明智光秀の妻の妻木煕子の記録、そしてその最後も明確に記録として残っているわけではないようです。 明智光秀と妻木煕子の間に生まれた有名な人物とは、ガラシャ夫人ではないでしょうか。 あの関ヶ原前夜に自害をして三成を追い詰めてしまった女性ですね。 そんなガラシャ夫人の母親である妻木煕子夫人の最後も、実は謎に包まれていて、いまだにわかっていないようです。 明智光秀の子孫たち これもよく言われている話でもありますが、明智光秀の子孫たち、その末裔についても語られるという機会が多いようですね。 書籍などでもよく取り上げられたりもしている状態です。 有名な本ですと以下の本ですね。 明智光秀の子孫について書かれた本• 明智家の末裔たち• 光秀からの遺言 最近ですと、明智光秀のイメージというのもいい印象の部分というのが出てきているのかもしれませんね。 僕の子供のころとかは、やっぱり信長を殺してしまったという悪いイメージ、ダークヒーロー的なイメージの方が強いですね。 それが、どんどん変わってきて、このような本とかも発売されるようになったのかもしれませんね。 (単なる僕の憶測ですけど) 明智光秀と「駒」、駒は実在したのか? 大河ドラマの登場人物に、「駒」という女性が登場してきていますね。 この女性は、実は架空の人物のようです。 少し大河ドラマではヒロインのような感じでも描かれているのですが、もしかしたら最初の光秀の正室のモデルにもなっているのでしょうか? 明智光秀の縁の城を紹介 こちらでは、明智光秀の縁のあるお城についてご紹介しています。 坂本城 光秀の主君で戦国の世に覇を唱えた織田信長は、数々の戦国大名と戦いました。 しかし、その武装した宗教徒も強大な敵でした。 比叡山延暦寺は強敵であっただけでなく、信長の根拠地の岐阜と京の間に位置していました。 地理的に浅倉家、浅井家と近く同盟を組みやすかったため大いに苦戦し、信長は比叡山焼き討ちの後、この地ににらみを利かせ、琵琶湖を制するため、もともとは足利義昭に仕えながら織田家の有力な家臣になっていた光秀に滋賀の支配を任せます。 そうして、坂本城を築かせます。 坂本は古来より交通の要衝であり、日吉大社の門前町としても栄えていました。 またこの地は、琵琶湖と山脈に挟まれて大変守りやすい土地だったのです。 亀山城 天下布武を進める織田信長の有力家臣だった光秀が、丹波国の制圧を任されます。 その際に、丹波にある亀岡盆地の中心部を選び、丹波平定中の光秀が亀山城の築城を開始しています。 落成後の城は丹波平定の拠点となり、平定後も支配の中心とされました。 そして、光秀は亀山城と同じ丹波国に、銅門番所などで今でも有名な福知山城も築城しています。 明智光秀の城のまとめ 明智光秀が築いた二つの城は共に戦略的に重要な地に建築されています。 そして歴史上、大きな役割を果たしました。 特に琵琶湖沿いに築かれた坂本城は、当時のイエズス会宣教師ルイス・フロイスによって、信長が築いた安土城に次ぐ豪壮華麗の城として記録されていますね。 なお、戦略家としても優れていた光秀が築いた城は、その壮麗さもあり名城と評価されました。 光秀の城として有名な坂本城は現存していません。 安土城に並ぶ名城として、現代までその名を残しています。 明智光秀の家紋「水色桔梗」 光秀の家紋が「桔梗」であることはよく知られていますね。 これは、秋の七草のひとつで、上品な青紫の色合いと可憐な姿で親しまれている五弁の野の花ということです。 本来は美濃の土岐氏の紋であり、これは鎌倉幕府御家人であった土岐氏初代「土岐光衡」が、戦陣で兜に桔梗の花を飾って勝利をおさめたことに由来すると伝わっています。 その伝統を引き継いで桔梗紋を用いたとされています。 植物紋として多くのバリエーションをもつ桔梗紋。 しかし、光秀が使用したものは「水色桔梗」ともいって、その名のとおり青系統に着色されたたいへん珍しいタイプの家紋のようです。 明智光秀の最後とは? 明智光秀の最後も、いろいろと逸話があるようですね。 1つは、山崎の戦いにてわき腹を刺されたことによる出血死という説があります。 これは、合戦の後に逃亡して、その後刺し傷が致命傷となったという考え方ですね。 また、もう一つは、死を覚悟した光秀が家臣あるいは近くの農民に介錯をさせたという説があります。 こちらの方が有力とされていますが、まだはっきりしたことは判っていませんね。 その後に、農民が光秀の首を織田信孝へ届けたという話も残っているようですね。 関連記事: 関連記事: 明智光秀のおすすめ本 ここでは、明智光秀のおすすめ本をご紹介して参ります。 光秀の定理 「信長の原理」と姉妹本であることでも知られていますね。 あの時代、時を同じくして時代を駆け上り、そして一瞬にして散っていった信長と光秀。 この2人と同じもの、そして異なったものはなんだったのか、真理に迫る小説でおすすめですね。

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歴史好きなら当然、天海上人が徳川家康のブレーンであり、膨大な知識を駆使して徳川幕府の基礎を構築したことも知っているだろう。 また、天海が死んだはずの明智光秀であったのではないかという話も流布されている。 この天海上人=明智光秀説の根拠はなかなか興味深い。 まず、その死の様子を検討してみよう。 表向きでは明智光秀は山崎の合戦で敗れ落ちのびる最中に、落ち武者狩りの土民の竹槍によって命を落としたとされているが、土民が光秀の首を秀吉の陣営に持参したのは三日後であり、腐敗が激しく本人かどうか確認がとれなかったとされている。 また、違う説では光秀の首とされるものは三体あったとか、土民の竹槍で深手を負った光秀は、家臣に自らの首を討たせ、その首は付近の竹薮に埋められたとも坂本城まで持ち帰ったとも言われている。 結局、その死は明確ではなく、光秀生存説は可能性としては十分にありうるのだ。 他にも随筆『翁草』には、あくまで影武者が小栗栖で死んだのであって、光秀本人は美濃山中で生き延びていたという。 また、関ケ原の合戦に生き延びていた光秀が老骨に鞭打って参戦しようとしたが、途中川で落水し溺れて死んでしまったという伝説も残されている。 不可解なのは、比叡山にある灯篭に「慶長二十年二月十七日、奉寄進願主光秀」と刻まれたものが残っている点である。 遺族が光秀の供養を願って奉納した可能性や、同じ名前の違う人物の奉納である可能性もあるが、大変気になる石灯篭である。 万が一光秀が生存していたとしても、それが天海足りうる可能性は残されているのだろうか。 天海は1588年に家康と出会っているが、この時に二人は人払いをしてまるで旧知の仲のように親しく語り合っていたというのだ。 天海=光秀ではないにしても、少なくとも天海の正体は、家康旧知の人物と言って過言はないだろう。 もし、天海が家康が知る明智ゆかりの人物だとしたら、大坂冬の陣や夏の陣で完膚なまでに豊臣家を江戸幕府が叩いたのは、豊臣家に対する徳川・明智の恨みではなかったのであろうか。 それに天海の前半生の経歴が全く明らかになっていない。 あれほどの高僧である。 30代や40代で名前が轟き渡り、その名が各種文献に残されていてもよいはずである。 よしんば大器晩成型の高僧であったとしても、本人が不動院入山以前の経歴を語ることをあまりしなかったとされているのだ。 何か語れない理由があったのであろうか。 また、天海と光秀は同じ時期に歴史の表舞台には出てこない。 つまり、同一人物がこの二役を演じることはタイミングとしては可能なのだ。 また家光の乳母に採用され、後に江戸幕府で権勢を誇った春日局は、光秀の甥で重臣でもあった斉藤利三の娘である。 つまり、光秀の縁者が次期将軍の乳母になっているのだ。 光秀が単なる謀反人であったとしたら、その身内を将軍の養育係に採用するであろうか。 幕府設立の立役者の身内だったからこそ、採用したのではないか。 また、これは偶然かもしれないが、三代将軍家光の名付け親は天海であったと言われており、家光の「光」という文字は、光秀の「光」からとられたとも、二代目将軍秀忠の「忠」も文字と組み合わせると「光秀」になるのは、光秀が幕府設立に寄与していたという天海のメッセージであるとも言われている。 さらに日光東照宮には、明智家の家紋である「桔梗紋」が使用されている。 これは「桔梗紋」ではなく、織田家の紋だという反論があるが、「明智平」という意味深な地名も日光には残されている。 この「明智平」は、中禅寺湖と華厳の滝を見下し、日光東照宮を上から監視している。 これは幕府の影の実力者は「明智」であったという暗喩(あんゆ)ではないのだろうか。

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【闇の日本史】明智光秀は天海だった…東照宮の猿は何を語る(1/2)

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天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺から天をも焦がす勢いで炎が上がり、時の天下人・織田信長(おだのぶなが)が自刃します。 この日本史上もっとも劇的と言われるクーデターを成功させた人物が惟任日向守(これとうひゅうがのかみ) 明智光秀(あけちみつひで)です。 歴史の教科書にも名前の記載がある有名な戦国時代の武将ですが、出生からすでに謎の多い人物で、 信長襲撃のクーデターの理由すら定まった説がいまだになく、またその死因に関しても諸説が立ち並ぶ、戦国時代もっとも謎の多い人物です。 2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公にも選ばれ、明智光秀役は長谷川博己(はせがわひろき)さんが演じることが発表されました。 今回は明智光秀の遺した多くの謎について、家紋や城、天海だという説も含めて迫ってみたいと思います。 生い立ち 織田信長の天下布武に従った多くの武将の中でも、その知名度の高さは徳川家康(とぐがわいえやす)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)に並ぶほどの人物である明智光秀ですが、 なぜか出生の日時や場所もはっきりしていません。 『明智軍記』『細川家文書』は 享禄元年(1528年)、『細川家記』が 大永6年(1526年)、『当代記』には 永正13年(1516年)とあり、 天文9年(1540年)生まれの説もあります。 どれが正しいという根拠がないため今も定まっていません。 生まれた場所は『美濃国緒旧記』に記されている土岐頼兼(ときよりかね、のちに改名して明智頼兼)が美濃国可児郡明智庄長山に築城した明智城と言われていますが、実は美濃国にはもう1つ恵那市明智町城山に明智城があり、 どちらが光秀が誕生した明智城であるかははっきりしていません。 その上、清和源氏である土岐氏の流れを汲む明智氏ですが、美濃国での身分は小土豪程度の扱いで、 光秀の父親も江戸時代に描かれた諸系図などでは明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明の4人の名前が上がるほどに適当な扱いです。 このように出生に関しても何一つ確証のない人物、それが明智光秀なのです。 織田信長の家臣になるまで 明智光秀が歴史上有名になるのは織田信長の家臣になってからですが、それ以前はどこで何をしていたのでしょうか? 明智氏は美濃国守護職土岐氏の一族だったので光秀も土岐氏に仕えていたのですが、天文21年(1552年)に土岐頼芸(ときよりあき)が 斎藤道三(さいとうどうさん)に美濃を追放された争乱時に明智氏は滅亡して光秀は美濃を離れた説があります。 また、土岐頼芸追放後は斎藤道三に仕え、弘治2年(1556年)の 道三・義龍父子が戦った長良川の戦いで敗れた道三方に明智氏がついたため滅亡して、光秀は美濃を離れたという二つの説が史料として残っています。 織田信長の家臣となり、一気に頭角を現す 家臣も領地も持たない足利義昭が15代将軍となるには有力な戦国大名の後ろ楯が必要でした。 最初は義昭の親戚筋に当たる若狭国守護・武田義統(たけだよしずみ)を頼りますが、内乱と若狭一国の兵力では三好氏、松永氏に対抗できるわけもなく、次に越前の戦国大名・朝倉義景を頼ります。 所領の広さといい、越前国の立地など、上洛するには朝倉家は好条件の大名家でしたが、朝倉義景に覇気がなく越前の太守で満足するような人物でした。 今川義元を桶狭間で破り、尾張を統一して美濃の斉藤氏も滅ぼして濃尾二国の太守となった織田信長を足利義昭に推挙した光秀は自らこれを仲介、両者を結び付けることに成功して織田信長にも目を掛けられる存在となります。 光秀が織田信長を推挙したのはその実力だけでなく、信長の正室だった濃姫(斎藤道三の娘)が光秀の従兄妹だと言われており、この縁を手繰ったのだとも言われています。 比叡山焼き討ちに参戦 この頃に足利義昭より山城国久世荘(現在の京都市南区久世)の領地を与えられていますが、主君を信長一人にしぼろうと考え始めていた光秀には有り難迷惑なことだったかもしれません。 翌、元亀2年(1571年)に三好勢が四国から摂津へ攻め上がると、呼応した石山本願寺の一向宗が挙兵、光秀は摂津へ出陣し三好勢を阿波へ押し返して比叡山焼き討ちに参戦。 全山を焼き尽くすと信長軍主力は撤退し掃討作戦は光秀が引き受け近江の寺院をことごとく降伏させました。 信長家臣団で最初の城持ち大名となる 足利義昭を信長に引き合わせ、その後は軍事、行政両面で非凡な才能を見せ、信長の窮地を救ったり、人身掌握の巧みさで領地経営を行い織田軍の領地の安定に尽力した結果、近江国志賀郡5万石を信長より賜り、坂本への築城も許されます。 信長麾下の武将の中では 柴田勝家(しばたかついえ)や丹羽長秀ら古参を差し置いて、最初の城持ち大名へと出世します。 これによって実質的に織田信長の家臣になったため、この年の12月に義昭に対して暇乞いを願い出ますが義昭はこれを拒否、光秀を手放そうとはしませんでした。 織田軍は四面楚歌、内も外も敵だらけ。 天正3年(1575年)信長より九州の名族・惟任(これとう)の姓を賜り、日向守に任ぜられ名実ともに大名となった光秀は、本願寺・三好氏との高屋城の戦い、武田勝頼との長篠の戦い、越前一向一揆平定戦へと連戦を重ねて軍功をあげると、丹波攻略に着手します。 丹波は追放された足利義昭の小豪族が乱立しており、緒戦に赤井直正の黒井城を攻めますが、八上城の波多野秀治らの裏切りにあって敗走します。 光秀は丹波攻略を行いながら織田軍団全体の戦闘にも出兵し、本願寺との天王寺の戦いにも出陣しますが、本願寺勢の猛攻にあい、原田直政が戦死するなど大打撃を受けます。 光秀も相次ぐ出陣による過労が祟り、一時は危篤状態にもなりますが、約2ヶ月で前線に復帰して再び丹波攻略へと向かいます。 正室・煕子(ひろこ)の病死 この年の11月、不遇の時代も光秀を支え続けてくれた正室・煕子(ひろこ)が病死。 天正5年(1577年)雑賀攻めに参加の後、信貴山で信長に反旗を翻した松永久秀を攻め滅ぼし、再び丹波に戻り亀山城を攻略すると八上城を包囲し波多野氏を孤立させます。 天正6年(1578年)には毛利攻めの羽柴秀吉の後詰めのために播磨に出陣して神吉城を攻め落とし、続いて反乱を起こした 荒木村重の有岡城攻略戦にも参加しています。 本能寺の変 天正7年(1579年)八上城の波多野氏を滅ぼし、黒井城を攻略して足掛け4年におよんだ丹波平定に成功すると、光秀は細川藤孝(ほそかわふじたか)と協力して隣の丹後も平定します。 この功績に対して織田信長は 「光秀の丹波国での働きは天下の面目を施した」と絶賛し、丹波29万石を加増、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶など畿内の有力武将を光秀の組下大名として畿内240万石約6万の軍勢が光秀の指揮下に入り、畿内方面軍が誕生します。 天正10年(1582年)3月、織田信忠を主力とする甲州征伐に参陣、ほとんど戦闘することなく坂本に戻ると、 上洛してくる徳川家康の饗応役に任ぜられますが、1ヶ月も経たないうちに解任され、毛利征伐中の羽柴秀吉の援軍を命ぜられます。 山崎の合戦 戦闘が終息しても自害したはずの信長の遺体が見つからず、信長死去の確証が得られないまま、光秀はいち早く京都の治安回復をはかり、信長の本拠である安土城への進攻と近江平定を目指しますが、山岡景隆(やまおかかげたか)の抵抗にあって思うようにいきません。 朝廷に金銀を贈り信長征伐を正当化しようとしますが、朝廷から光秀への使者となった吉田兼見(よしだかねみ)には謀反と断じられています。 備中で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉は本能寺の変の急報に接するとすぐに毛利と和睦、旧織田諸将に自分に味方するよう要請しながら山陽道を駆け抜け、本能寺の変から11日後には山城国山崎に着陣し明智軍と対峙しています。 また畿内方面軍として明智光秀の組下となっていた細川藤孝、筒井順慶らは領地を動こうとせず、摂津に所領を持つ池田恒興(いけだつねおき)、中川清秀(なかがわきよひで)、 高山右近(たかやまうこん)らは秀吉軍に参陣し、 山崎では羽柴軍2万7千(4万の説もあり)明智軍1万6千(1万余の説もあり)が激突、勝負は数と勢いに勝る羽柴軍が明智軍を圧倒しました。 明智光秀は天海? まことしやかに囁かれる日本史の噂話。 その中でも「光秀=天海説」は多くの謎や事実を含んで今でも論議の対象となっています。 南光坊天海は天台宗の僧侶で徳川幕府成立当初の幕僚で徳川家康の側近でした。 天海は慶長4年(1599年)に喜多院(きたいん・川越大師)の第27世住職になってからの史料は数多く存在しますが、それ以前に関しては全く謎に包まれており、当の天海自身も弟子に 「生まれた日時も場所も忘れてしまった。 仏門に入った人間は俗人であったときのことなど意味のないことなのだ」と語り、天海の素性は誰一人として知らないと『東叡山開山慈眼大師縁起』に書かれています。 この説は生まれや年齢がはっきりしない歴史上の有名人物が結びつけられた典型的な例と言え、• 天海が日光で明智平という地名をつけた。 日光東照宮には明智家の家紋である桔梗紋が使われている。 山崎の合戦以降に光秀と名乗る人物が比叡山に石碑を寄進している。 春日局が天海と会ったときにお久しぶりですと挨拶したこと。 天海と光秀の筆跡が酷似していること。 があげられていますが、この程度のことで天海が光秀と同一人物と言えるはずはありません。 今のところは歴史上の噂話と言ったところではないでしょうか。 家紋 桔梗紋は清和源氏の流れを汲む土岐氏が使用した家紋で、土岐氏支流の明智氏も当然、桔梗紋を使用しました。 明智光秀が使用したのは 水色桔梗と言われる彩色紋で、 鎌倉幕府の後家人であった土岐光衡(ときみつひら)が戦の時に兜に桔梗の花を挟んで参戦して勝利したのを記念して家紋や旗印にしたのが始まりとされています。 鎌倉時代に土岐氏は一族の支流を美濃国内に土着させ、その土地の有力豪族として、家紋から名前をとった「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成、美濃国での土岐氏の支配権を確立していったのです。 清和源氏の流れを汲む名門土岐氏だけあってこの桔梗紋を使用した人は数多くいます。 武田信玄の家臣で武田四天王の一人に数えられる山県昌景、豊臣秀吉の家臣で虎退治と熊本城築城で有名な加藤清正、海援隊を創設者で薩長同盟の立役者である 坂本龍馬、長州征伐や戊辰戦争で長州藩士を指揮し勝利を納めた事実上の日本陸軍の創始者の 大村益次郎などが桔梗紋を使用しています。 丹波亀山城を出陣して桂川を渡った辺りで全軍に向かって明智光秀が馬上から叫んだと言われていますが、クーデターを実行しようとする武将、それも超一流の軍略家である明智光秀が軽率にこのような発言をするとは思えません。 後世の作り話と考えるのが妥当だと思われますが、のちに小説、映画、ドラマのタイトルに使われたり、今ではことわざ辞典にも載るほどの名言となっています。 スポーツや勝負事での重大局面の比喩に使われています。 これは明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の合戦でこの天王山をとった方が勝利するといわれていたことが由来となっています。 事実、山崎の合戦だけではなく南北朝時代の京都争奪戦や応仁の乱、禁門の変や鳥羽伏見の戦いでもこの天王山が勝敗の分かれ目となりました。 意味仏門に仕えるものが嘘をつけば方便(人を真の教えに導くための仮の手段)と言い訳し、武士が嘘をつくと武略(策略、戦術)と褒め称えられる。 これを見れば土地を耕し生きる百姓たちのなんと可愛い(真面目で律儀)なことであるか。 正直に真っ直ぐに生きようとした明智光秀らしい発言です。 2020年の大河ドラマ 2019年のNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」に続いて、2020年のNHK大河ドラマは明智光秀を主役にした 「麒麟がくる」になると発表されました。 脚本は1991年第29作目の大河ドラマ「太平記」を書いた池端俊策(いけはたしゅんさく)氏、主役の明智光秀を演じるのは 長谷川博己(はせがわひろき)さんです。 長谷川博己さんは1977年3月7日生まれの現在41歳、大河ドラマ出演は2013年の「八重の桜」以来二作目になります。 2011年の日本テレビ系ドラマ「家政婦のミタ」で主人公が家政婦としてやって来た家庭の父親役でブレイク、その後はTBS系ドラマ「小さな巨人」で主演、2016年の映画「シン・ゴジラ」でも主演し、第40回日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞、遅咲きのいぶし銀2枚目俳優が明智光秀を演じるとどのような新しい面が見られるのか今から楽しみです。 さいごに 武田信玄、上杉謙信をはじめとする戦国大名の誰もがなし得なかった時の最高権力者であった織田信長をものの見事にワンチャンスで葬り去った明智光秀。 しかも織田信長の確固たる後継者とまわりが認めていた嫡男・信忠をも同時に葬り、天下を手中におさめました。 ところが、そこから天下を掌握する手段は織田信長を葬り去ったのと同一人物とは思えないやっつけ仕事で、多くのミスを積み重ねてしまい、わずかに本能寺の変から11日後には光秀自身もこの世には存在しませんでした。 何を望み、何の目的で織田信長を葬り天下を取ろうとしたのでしょうか。 その真の目的や動機は本能寺の変から400年以上たった現在に至っても解明されていません。 明智光秀が起こした本能寺の変の謎が解けたとき、日本史に新た大きな1ページが加わることは間違いありません。

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