明智光秀年表。 明智光秀の生涯(年表付き)文武両道・真面目なエリートはキレると怖いのだ!

明智光秀

明智光秀年表

明智光秀の年表 西暦(和暦) 光秀年齢 光秀の出来事 周りの出来事 1528(享禄元) 1歳 明智光綱の長男として美濃多羅城に生まれその後明智城へ移る 将軍足利義晴近江国に逃亡する 1535(天文4) 8歳 父親が死去し、家督を相続する 家康の祖父死亡。 丹羽長秀、荒木村重誕生。 1556(弘治2) 29歳 明智城落城。 浪人となり越前朝倉氏に知行(給料)もらう 斎藤道三没 1557(弘治3) 30歳 諸国遍歴に出る 織田信長、弟を謀殺 1560(永禄3) 33歳 越前(福井)に戻る。 織田信長と徳川家康の同盟成る(清洲同盟) 1562(永禄5) 35歳 朝倉家より鉄砲隊100人預かる。 細川忠興生まれる 1563(永禄6) 36歳 織田信長に仕える 三好義継、松永久秀 将軍足利義輝を殺害 1565(永禄8) 38歳 信長より、美濃安八郡を拝領する 足利義昭、朝倉家を頼り移動。 1566(永禄9) 39歳 北伊勢平定に出陣 織田信長美濃(岐阜)を制圧 1567(永禄10) 40歳 信長と将軍との仲介役を務める 足利義昭が将軍になる、 1568(永禄11) 41歳 北畠具教討伐参加。 二条城普請。 織田信長、北畠家を制圧 1569(永禄12) 42歳 長男生まれる。 金ヶ崎の退き口務める。 姉川の戦い。 石山本願寺挙兵。 1570(元亀元) 43歳 比叡山焼き討ちの後、信長より近江志賀郡を与えられる。 比叡山焼き討ち。 1571(元亀2) 44歳 浅井家と戦う。 坂本城築城。 三方ヶ原の戦い。 1572(元亀3) 45歳 今堅田の本願寺勢攻撃。 足利義昭の槙島城攻撃。 朝倉浅井滅亡。 1573(天正元) 46歳 光秀の子(十二郎 )を筒井順慶に養子に出す。 信長、長島一向一揆を制圧。 秀吉、長浜(近江)を治める。 1574(天正2) 47歳 丹波(兵庫県)平定を信長に命じられる。 「惟任日向守」を与えられる。 長篠の戦い 1575(天正3) 48歳 波多野秀治の謀反により敗走する。 石山本願寺攻めの最中病で倒れる。 信長、石山本願寺攻める。 1576(天正4) 49歳 信貴山城攻めで松永久秀自害。 安土城下、楽市と定める。 1577(天正5) 50歳 娘のガラシャが細川忠興に輿入れ。 荒木村重、信長に謀反。 1578(天正6) 51歳 丹波平定する。 安土城完成。 1579(天正7) 52歳 坂本城修築。 石山本願寺との和議が成立。 1580(天正8) 53歳 信長の馬揃え(天皇の前での軍事パレード)を取り仕切る(惣奉行) 信長、京都で朝廷の所望により馬揃えを行う。 1581(天正9) 54~55歳 家康の安土城来訪時の饗応責任者を命じられる。 本能寺で信長を自害に追い込む。 山崎の戦いで秀吉に敗退し、逃走中にヤブの中で土民に殺害される。 武田家滅亡。 本能寺の変。 秀吉の中国大返し。 山崎の戦い。 本能寺直前までは、結構良い感じの人生を送っていたのでは?と私には見えてなりません。 大事な家族がいて、戦争でも実績を残し、織田家の中では途中参加でしたが出世し、趣味も持ち、良い領主として民にも評価され、とあまり表立って非の打ちようがありませんでしたから、、。 まとめ 前半生は資料がほとんど残っていないようで、若い日どの様な人生を送ったのか確かなものはありませんが、明らかに戦争が日常にあったような場所で暮らしていましたから、明智城主や、斎藤道三などから大人の教育を受けていたことでしょう。 謀反人、戦国最後の下剋上武将として名前が現在は伝わりますが、最新の研究では、勇猛で智将で、教養人で、良い領主で、家族思いのスーパーマンだと見直されえています。 このブログは、あなたが知り得ない戦国武将の普段の様子や、何を食べていたのか?などをあなたに伝えるブログです! なんで知ってほしいと思ったのか?といいますと、どちらかというと表舞台に出ない、日常という部分にフォーカスし、掘り下げて見ることで、色々な発見があります。 その発見から、現代の我々が生きている時代にも使えたり、応用できたりするものがあれば活用して頂き、より豊かな人生を送るのにお役に立てて欲しいと思うからです! また、戦国武将、大名の事を知ることでどんどん武将達を好きになってもらいたいなと思ってます。 武将たちも人です。 生きている時代は違えど人の子。 共感できる部分はたくさんあリます。 神格化された大名など、実際の所、日常はどうなの?どんな逸話があるの?などと解き明かしていくと、すっかりその武将の虜になっちゃっているかも!? 戦国時代の他にも広く武士に関連した情報があれば、いち早くお伝えしていくことをモットーにしていきます。 あなたには、好奇心と感動をくすぐりまくられ、戦国時代の虜になるでしょう! お楽しみに!.

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明智光秀の生涯(年表付き)文武両道・真面目なエリートはキレると怖いのだ!

明智光秀年表

この記事を短く言うと 1,の『死因』は? 「槍で刺されて致命傷を負ったため、切腹」 2,明智光秀の『没年月日』は? 旧暦・ 天正10年6月13日 新暦・ 1582年7月2日 享年55歳(67歳という説もある) 3,明智光秀の『最後の様子』は? 「 秀吉」との「山崎の戦い」に敗北した光秀は、坂本城へと落ちのびる途中で、「小栗栖(おぐるす)」という場所で「落ち武者狩りの百姓たち」に襲撃された。 (または信長の家臣だった小栗栖館の武士団) 竹槍(またはサビた槍)で刺されて深手を負ったため自害したという。 光秀終焉の地は「明智藪」と呼ばれて、現在は「碑」が建てられている。 4,明智光秀の『辞世の句』は?• 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」• 「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」• 「土岐(とき)は今 天(あめ)が下知(したし)る 五月(さつき)かな」 《明智光秀》 「引用元より」 「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」に破れた「明智光秀」は、坂本城へと落ちのびる途中、「落ち武者狩りの百姓たち」に「 竹槍で刺されて深手を負ったため自害」 家臣「溝尾茂朝」に介錯(かいしゃく)させ、その首をちかくの竹やぶの溝にかくした。 【 6月14日】、明智光秀の首は、それを発見した百姓により、「村井清三」をつうじての三男「織田信孝」の元に届き、まずは「織田信長」終焉の地である「本能寺」でさらしものにされた。 【 6月17日】、光秀と同じく、捕まって斬首された光秀の家来「斎藤利三」の屍とともに、京都の粟田口に、首と胴をつないだ形で、さらしものとされた。 【 同年6月24日】、「光秀」と「斎藤利三」の首塚が、粟田口の東の路地の北側に築かれた。 信長の側近「大田牛一」が書き残した『太田牛一旧記』によれば、明智光秀たちは小栗栖(おぐるす)という場所で、落ち武者がよく通る田のうえの細道を進んでいるときに、藪のなかから繰り出された百姓の「 サビ た槍で、腰骨を突き刺された」を受けたとのこと。 別の説よによれば、光秀は「落ち武者狩り」ではなく、「信長の家来だった小栗栖館の武士たち」から襲撃されて亡くなった、とも言われている。 そのとき、これで最期とさとった光秀は、自らの首を「知恩院に届けてくれ」と、周囲の者に言いのこした(つまり、この直後に光秀は切腹して、介錯され、みずからの首を討たせたということ) 《京都・知恩院》 「引用元より」 光秀の首のゆくえについて、信長の息子「織田信孝」に届けられた、と解説したが、その他にも諸説あり。 別の説によれば、光秀の首は、本人の遺言にしたがって「知恩院」へ運ばれたが、敵軍によって道をふさがれて届けられず、知恩院への道の途中で埋められ、現在では「知恩院」の近く、地下鉄東西線「東山駅」の南に、明智光秀の「首塚」がある。 光秀・終焉の地「明智藪」 光秀が「落ち武者狩り」または「小栗栖館の武士団」から襲撃され、亡くなった場所は「明智藪(あけちやぶ)」と呼ばれ、現在は「碑」が建てられている。 この場所は、「本経寺」の境内に位置している。 「明智藪」という名前だが、現在は「藪(やぶ)」があるわけではない。 羽柴秀吉(豊臣秀吉) 「引用元より」 兵力は 羽柴軍2万7千(4万人という説もある) 明智軍1万7千人(1万人余りとする説もある) 兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間はとても狭かったため、両軍とも「3千人程度」しか軍を配置することができなかった。 合戦が長引いてしまうと、「にわか連合軍」である羽柴軍の混乱や、周辺勢力の光秀への増援が予想されていた。 そのため、羽柴軍にとっては、決して楽観できる状況ではなかった。 羽柴軍の主力は「備中高松城の戦い」から「中国大返し」を行ったために疲れきっており、「高山右近」や「中川清秀」たち、現地で合流した武将とその軍団の活躍に期待するしかなかった。 秀吉側「3万5千人」に対し、明智光秀はというと、各城にも兵を残したため実数「1万人」程度で劣勢であり、戦いが始まると最大勢力の「斎藤利三」の軍団「3千人」が包囲されたことによりあっという間に敗走。 これにより早くも勝敗が決まった、との見解もある。 明智光秀の『辞世の句』と意味 光秀の辞世とされる詩や句が残っているが、いずれも後世の編纂物によるものであり、創作の可能性がある。 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」 じゅんぎゃくにもんなし たいどうしんげんにてっす ごじゅうごねんのゆめさめきたれば いちげんにきす 【たとえ信長は討つとも、主君と家臣の順序について、文句を言われる筋合いはない 彼も我も、同じ「武士」である。 武士たるものが主君とするお方は、ただ一方(天皇)のほかに誰があるだろう。 その大道は、私の心の中にあること。 それを知るものは、やがて知るだろう。 とはいえ五十五年の夢が醒めれば、我も世俗の毀誉褒貶(きよほうへん)にさらされるだろう(毀誉褒貶・褒めるものも、けなす者も多いということ) しかしその毀誉褒貶をする者もまた、一元に帰せざるを得ないだろう。 】 心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ 【主君である「織田信長」公を倒せば、私は謀反人の汚名を着せられるだろう。 しかし、私の心は誰にもわからないのだから、なんと言われても構わない。 命も名誉も惜しくはない 】 1,の『死因』は? 「槍で刺されて致命傷を負ったため、切腹」 2,明智光秀の『没年月日』は? 旧暦・ 天正10年6月13日 新暦・ 1582年7月2日 享年55歳(67歳という説もある) 3,明智光秀の『最後の様子』は? 「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」に敗北した光秀は、坂本城へと落ちのびる途中で、「小栗栖(おぐるす)」という場所で「落ち武者狩りの百姓たち」に襲撃された。 (または信長の家臣だった小栗栖館の武士団に襲われて亡くなった)。 竹槍(またはサビた槍)で刺されて深手を負ったため自害したという。 光秀終焉の地は「明智藪」と呼ばれて、現在は「碑」が建てられている。 4,明智光秀の『辞世の句』は?• 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」• 「心しらぬ人は 何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」• 「土岐(とき)は今 天(あめ)が下知(したし)る 五月(さつき)かな」 以上となります。 本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。 よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。 ありがとうございました.

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【明智光秀の生涯とは】簡単にわかりやすく解説!!彼の人物像や経歴など【麒麟がくる】

明智光秀年表

明智光秀の生涯を年表でご紹介します。 明智光秀の出自については、史実が残っておらず、諸説がいくつもあります。 明智光秀の死後、江戸時代中期に書かれた「明智軍記」によれば、美濃の守護であった土岐氏(源氏)の一族であると記されていました。 また、「明智氏一族城家相伝系図書」では、明智光秀の母「牧」の妹は、斉藤道三に嫁いだ「小見の方」で、その娘、濃姫(織田信長の正室)と明智光秀は、いとこ同士ということとなっています。 ただし、これも通説の域で、確かなものではありません。 明智光秀が主人公である大河ドラマ「麒麟がくる」では、この説を取り上げており、この年表でも明智光秀が土岐一族の分家だという説を採用しました。 生誕も1528年(享禄元年)として明智光秀の年表をまとめております。 1528年 (享禄元年) 1 歳 の家臣で、土岐氏の分家である明智光綱の長男として美濃多羅城に生まれ、その後、明智城へ移る。 通称は十兵衛 多羅城 1533年 (天文2年) 5 歳 斎藤道三が、稲葉山城から美濃の守護・土岐頼芸を追放して城主となり、実質的に美濃を支配下に治める 1535年 (天文4年) 7 歳 父 明智光綱が死去し、が家督を相続。 叔父で明智城主の明智光安の後見を受ける 1544年 (天文13年) 17 歳 稲葉山城の斎藤道三をが攻め入る「加納口の戦い」に参戦。 斎藤道三の計略で織田軍は大敗を喫する 井ノ口 1556年 (弘治2年) 29 歳 斎藤道三と長男・斉藤義龍が「長良川の戦い」で争い、斎藤道三は討ち死に。 このとき、斉藤義龍に明智城も攻め落とされる。 明智家は離散し、明智光秀は浪人となって、諸国遍歴に出る。 この時期に幕臣としてに仕えていた細川藤孝と知り合う 長良川 1571年 (元亀2年) 44 歳 織田信長の命で、明智光秀らがを実行。 数々の功績が認められ、織田信長より近江国滋賀郡(現在の)5万石を与えられ、坂本城の築城を開始する 1572年 (元亀3年) 45 歳 「小谷城の戦い」で織田信長に従い、上から水軍を率いて攻撃し、近江の浅井長政を攻める 1573年 (天正元年) 46 歳 明智光秀は、「槇島城の戦い」で織田信長側で出陣。 足利義昭は降伏し、京を追放される。 室町幕府が滅亡 槇島城 坂本城が完成し、会を催す 「一乗谷の合戦」で、織田信長が朝倉義景を破り、を滅ぼす 1574年 (天正2年) 47 歳 が東美濃を攻めた「明智城の戦い」に出陣する 1575年 (天正3年) 48 歳 織田軍は「」で、鉄砲戦術により武田軍を大破し、勝利を収める。 その勢いのまま、越前一向一揆を討伐。 織田信長はさらに勢力を広げ、丹波攻略に力を入れる 1576年 (天正4年) 49 歳 織田信長の命を受けて、1570年から続く浄土真宗本願寺勢力の本山・石山本願寺を攻める。 この時期に亀山城の築城にも着手 石山本願寺 明智光秀の妻・煕子、病にて死去 - 1577年 (天正5年) 50 歳 松永久秀の居城「信貴山城の戦い」に参戦。 この戦いで松永久秀は自害 信貴山城 1578年 (天正6年) 51 歳 坂本城で茶会を開く 明智光秀の娘・玉(のちのガラシャ)がに輿入れする - 1579年 (天正7年) 52 歳 織田信長が丹後国(たんごのくに:現在の北部)を配下にし、明智光秀に一国(29万石)が与えられる 1580年 (天正8年) 53 歳 明智光秀が横山城を大改修して、福知山城に改名 1581年 (天正9年) 54 歳 坂本城で連歌会と茶会を催す。 細川藤孝と共に丹波の見地を行なう.

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